「カウンターの上でいきなり男女が...」《日本一のハプバー》「眠れる森の美女」元オーナーが明かす業界の天下を取った「ヤバすぎる裏話」
日本一と呼ばれたハプニングバー
「僕が業界に入った00年代のハプニングバーはアングラのさらにアングラの飲み屋という位置付けでした。平日はおじさんたちがポツポツとやって来る程度。お店の情報だって夕刊紙の3行広告を見るぐらいしかなかったです。新規で来る女性客は2~3ヵ月に1人程度。年間にすれば6人です(笑)」 【写真】「ほぼ裸、何もつけない」がファッション?ケンダル・ジェンナーの過激な日常 そう当時を振り返るのは「眠れる森の美女」元オーナーの廣瀬理基氏(42)だ。同店は英語読みの頭文字を取って業界ではSBと称されていた。 東京・渋谷。若者たちがすれ違うスクランブル交差点を抜け、道玄坂の途中の路地へと進んだ先に店を構えていたのが、かつて「日本一のハプニングバー」と謡われたSBだった。 同店は創業は06年。警視庁から摘発を受ける22年まで実に16年間にわたって営業を続け、最盛期には1日200人もの客で賑わっていたという。 ハプニングバーとは一般的には会員制の飲食店という名目で多種多様な性的趣向を持つお客さんが集まり、いかがわしい行為を行う場所を指す。「眠れる森の美女」はハプニングバーの中で日本最大級を誇る店だった。 閑古鳥が鳴いていたハプニングバー業界はいかにして日本で成長を遂げたのか。元オーナーの廣瀬氏の証言を元にその歴史を紐解いていく。(以下、「」は廣瀬氏)
「こんな面白い世界が」
「出身は岡山で、中学時代はサッカー部でした。ただ高校に進学してからは勉強に興味が持てず、地元の高校をすぐに中退。16歳の頃には家族で埼玉へ引っ越しました。当時は通信制の高校に通い直しながらトビ職などの現場仕事をしたり、大宮や六本木でキャバクラのボーイやキャッチで働いたりもしました」 そこで出会ったのがハプニングバーの前身となるカップル喫茶だった。 「地元の友人が六本木のカップル喫茶で働いていて『遊びに来いよ』と誘われたのが最初です。店に入ったら薄暗い中で男女が人目も気にせずまぐわっていて『なんじゃこりゃ! 』とカルチャーショックを受けました。『こんな面白い世界があるのか』って心を鷲掴みにされましたね」 その後も店に通い、気が付くと当時のカップル喫茶の関係者らにも顔を覚えられる存在になったという廣瀬氏。周囲からハプニングバーでのスタッフの誘いがあったのは初めて店を尋ねて約1年後のことだったという。誘われたのは新宿・歌舞伎町でハプニングバーの創成期を支えた『美女と野獣』だった。