「立ち止まれない街」「座るにもお金がかかる街」と言われる渋谷、ガラガラな渋谷モディでも「スタバ」は大混雑に。なぜこんなに「カフェが混む」ようになった?
でも、もっと驚くのは、そのどこもが(特に休日には)混雑し、行列していることだ。これだけあっても、数が足りていないのだ(逆に、だからこそ、新しい商業施設には必ずスタバが入るのかもしれない)。そういえば、4月にリニューアルオープンしたTSUTAYAにも、大型のスタバが入った。 こうした現象は、スタバだけでなく、他のカフェチェーンにも言えることだ。ドトールやタリーズなど、休日では本当にどこも行列している。明らかに、カフェの数が足りていない。
■「街で時間を潰す」意識が無くなってきた しかし、その理由はなんなのだろうか。これには色々な要因が考えられる。「東京一極集中」という言葉があるように、そもそも都心に人が多すぎる問題。歴史を遡ってみても、特に東京は、その都市のサイズの割に、人口が多い街だとされてきた。これは、人間側の問題であろう。 一方、私がここで考えてみたいのは、「都市」側の問題である。具体的にいうと、「都市の中で、“何もしなくていい滞留空間”が減少したこと」に、「渋谷のカフェ混みすぎ問題」の理由の1つを探ってみたいのだ。
ここから詳しく説明するが、かつては街の中をぶらぶらみて回ったり、あるいはそこに居座ったりすることができたが、現代ではそうした機会が失われつつあるのではないか、という仮説だ。 とても簡単に言えば、「ちょっと時間を潰す」ことが、今の都市では難しいのではないか、ということだ。 実際、私のことを思い返してみても、待ち合わせ時間まで少し時間が空いたときに、「よし、街をぶらぶらしようか」とか、「ちょっとそこらへんの店に入ろうか」とか、「その辺りのベンチに座ろうか」という気分にならず、無意識で「カフェに行くか」ということを選んでいる。
私たちの選択肢の中から、「街で時間を潰す」ということの存在感が薄れてしまっているように思えるのだ。 では、どうしてそのような意識を私たちは持つようになってしまったのだろうか。 この問いを考えるために、少しだけ渋谷の歴史を見ていきたい(以下、記述は、吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』、北田暁大『広告都市・東京』、宮沢章夫『80年代サブカルチャー論講義』を参照)。 実は、渋谷の歴史の始まりは、「ぶらぶら歩ける街」として形作られてきた経緯がある。