「国家安康」「君臣豊楽」の銘など案ずるな、と家康は言ったのに…事態を紛糾させたもう一つの原因<棟札問題>とは?大坂の陣開戦の真実
松本潤さん演じる徳川家康が天下統一を成し遂げるまでの道のりを、古沢良太さんの脚本で巧みに描いてきたNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)もいよいよ12月17日の放送で最終回を迎えます。一方、静岡大学名誉教授の本多隆成さんが、徳川家康の運命を左右した「決断」に迫るのが本連載。今回のテーマは「大坂の陣開戦の真実」です。 豊臣家に生き残る道はあったのか?可能性を考察してみると… * * * * * * * ◆家康の気がかり 慶長十六年(一六一一)三月の二条城での対面で秀頼が家康に臣従し、徳川公儀が豊臣公儀に優越することが明確に示されたのであるが、他方で、それによって秀頼が摂津・河内・和泉三国六五万石の一大名にすぎなくなったのかといえば、それはそうではなかった。 (1)親王・公家衆・門跡衆などの年賀のための大坂下向は、大坂の陣まで続いた。 (2)外様諸大名にたびたび課せられた御手伝普請が、秀頼には課せられなかった。 (3)慶長十六年四月の諸大名の起請文に、秀頼は署名をしていない。 (4)秀頼と大坂衆の叙任は幕府の制約の埒外であった。 つまり、秀頼が豊臣公儀を背負って大坂城にいたままでは、「並の大名」とはいえないこともまた事実であった。 老い先が短くなった家康にとって、これはかなり気がかりなことで、自分の死後に朝廷が秀頼を関白に任ずるようなことがあれば、将軍秀忠と関白秀頼とが並立するような事態さえ起こりかねなかった。
◆転封か、さもなくば滅亡か 徳川氏による覇権確立のためには、豊臣氏を滅亡させないまでも、少なくとも大坂城からは出して転封させ、「並の大名」として完全に臣下に組み込むことが必要であった。 とはいえ、二条城に出仕して礼を尽くし、何の科(とが)もない秀頼に対して、一方的に転封を命ずるというようなことはさすがに憚られた。 ところが、家康にとってそれを迫る絶好の機会が訪れた。いわゆる方広寺大仏殿の鐘銘(しょうめい)問題と棟札(むなふだ)問題とがそれである。家康はこの問題を梃子として、秀頼に対して転封か、さもなくば滅亡かを迫る大きな決断をしたのであった。 秀頼にとって不運だったのは、無二の豊臣方ともいうべき加藤清正が慶長十六年(一六一一)に、浅野幸長が同十八年に死去したことである。 方広寺の大仏殿は秀吉時代に建立が始まり、たびたびの災害に見舞われながら、慶長十四年(一六〇九)から秀頼があらためて巨額の経費を投じて大仏殿と大仏の再建を始めた。同十七年春には再建工事がほぼ完成し、慶長十九年四月には釣鐘の鋳造も行なわれた。 五月には片桐且元が駿府に下り、大仏開眼供養・堂供養の日時や法会を行なう僧侶などについて、家康の了承を得ていた。
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