「90代の就活」に挑んでいた渡辺さん…その意欲を思い出し、元気づけられた!【ケアマネージャー哀愁の日々】
【ケアマネージャー哀愁の日々】#1 私は71歳。ある零細な居宅介護支援事業所で常勤のケアマネジャーをしている。ちなみにケアマネジャー(介護支援専門員)とは、居宅介護支援事業所や地域包括支援センター、施設などに所属し、介護や経済問題に悩む人びとの相談に応じながらケアプランを作成するのが主たる業務だ。 【写真】鈴木早智子、新田恵利、岩間早織…芸能人が介護現場で人気の理由は「コミュニケーション能力」 私はあるとき、ワケあって他の事業所に移りたくなった。就活を開始したものの年齢のせいか面接にさえたどりつけない。「この年でもう転職は無理なのか」とあきらめかけそうになったが、ふと、以前出会った渡辺俊彦夫妻のガッツを思い出した。 かつて私は、高齢者のよろず相談所と呼ばれる地域包括支援センターで10年間、主任ケアマネジャーとして働いた。当時83歳の渡辺俊彦さんから「相談に乗ってほしい」という電話をもらったのは、2011年5月のことだった。 県営住宅でひとり暮らしをしていた渡辺さんを訪ねた。 「タクシー会社で運行係をしてきましたが、所長の交代をきっかけに年だからって理由でクビになりました」 渡辺さんは太く短い首に片手を当てて吐息をついた。それまで渡辺さんは、運行係の収入と国民年金でほそぼそと暮らしてきた。妻とは死別、子はいない。私は彼とハローワークに行ったが、その日、就職先は見つからなかった。 1週間後、渡辺さんから電話がきた。すると「僕、台湾出身の女性と結婚することにしました」と突然の告白だ。私が渡辺さん宅を再び訪ねると、肉感的で妖艶な雰囲気の女性が現れた。彼女の名前は桂華さん。当時60歳。「親子ほど年が離れて年甲斐もないけど」と渡辺さんは薄くなった頭を照れくさそうにかいている。知人から彼女を紹介され、なんと交際ゼロ日婚をしたという。そのころ、低年金の男性と外国人女性をマッチングさせるといった怪しげなネットワークが県営住宅内に形成されていた。話を聞いた瞬間、私は素直に渡辺さんを祝福する気持ちにはなれなかった。 台湾出身の桂華さんは30年前、日本人男性と結婚し、男子を出産したが、DVが理由で離婚。日本中を転々として底辺の仕事に就いてきたという。 「私、千葉の畑で野菜をカットする仕事していた。東日本大震災で住んでたアパート倒れたよ」 桂華さんは知り合いのツテでこの町にやって来て、スナックで住み込んで下働きをしていたところ、渡辺さんを紹介されたのだという。 だが私の危惧とは裏腹に、その後、渡辺夫妻は仲良くハローワークに通い、渡辺さんは産業用ロボットの部品を組み立てる工場やペットボトルの蓋を作る工場で働いた。さらに桂華さんは初めて正規職員として特別養護老人ホームに採用された。調理員になったのである。2人で支え合って共働きをした。 順風満帆と思えたが、2人を不運が襲う。2019年10月、台風19号で特別養護老人ホームは水没した。桂華さんは毎日、ホームの後片付けに通った。ある夜、帰り道、自転車で田んぼに突っ込んだ。携帯電話で知らせを受けた渡辺さんが桂華さんを助け出した。左肘を骨折していた。そして2020年1月、今度は台湾の弟が病気になり、桂華さんは急きょ、故国に帰ったが、直後のコロナ禍で日本に戻れなくなった。渡辺さんは火の消えたような部屋で桂華さんを待ち続けた。 2023年1月、桂華さんはようやく帰ってきた。彼女は左肘骨折の手術を受けた病院の厨房で働き始めた。私は6年ぶりに渡辺夫妻に再会した。「桂華さんに負けちゃいられない。仕事を探す」と渡辺さんは意気込んだ。 90歳をすぎても働く意欲を忘れない渡辺さんを思い出しながら「まだまだ働かなきゃ! あきらめるわけにはいかない」と私は自分を勇気づけていた。 (岸山真理子/ケアマネジャー)