令和の「タワマンマウンティング」と平安の姫君サロン「ヒエラルキー」最大の違いとは?
平安の姫君のサロンに見え隠れする「ヒエラルキー」、令和の港区マウンティングとの最大の違いは
倫子サロンのメンバーである姫君(茅子(渡辺早織)・肇子(横田美紀)・しをり(佐々木史帆))は空気を読むことに長けており、倫子の発言にいつも同調しています。彼女たち3人が倫子を差し置いて前に出るような行為が許されないことは暗黙の了解事項となっています。 サロンがこのような雰囲気になっているのは、倫子がいばったらしい性格だからというわけではなく、貴族社会の仕組みによるもの。倫子は自分の役目を理解し、淑女として適切な振る舞いをしています。 人間の集まりにはいつの時代もヒエラルキーがおのずとできます。しかし現代と違うのは、平安時代における姫たちのコミュニティ内の序列は“家柄”で決まるということ。 人間の性質上、コミュニティ内でのヒエラルキー化がどうしても避けられないのであれば、平安時代のように家柄で決まる方がマシなのか、現代のようにコミュ力や容姿で決まる方がマシなのかなんともいえないところです。家柄で人を判断するのはあるまじきことですが、コミュ力や容姿をものさしに測る社会では生涯癒えない劣等感を抱える“犠牲者”が生み出されます。 倫子のように気配り上手な人がコミュニティのトップであれば、立場が弱い者を咎める者はさりげなくたしなめられ、みんなが気持ちよく過ごせるはず...。 前編記事では作中の人物描写からみえる女性の生き方を解説しました。後編記事では「平安時代のモテ」について解説します。
ライター・アメリカ文学研究者 西田梨沙