夜寝た後に帰宅し、起床前に出勤 親子のコミュニケーションは手紙だった 過労で自ら命を絶った父に伝えたいこと 過労死防止法成立から10年
「父を過労死で亡くしました。記憶にある父はずっと疲れていて、どんどんやせ細っていきました」。5月30日、兵庫高校(神戸市長田区)の体育館で、3年生約320人を前に堀切文音(あやね)さん(30)=神戸市西区=が話し始めた。あの日から22年、過去に戻って父に会えるなら伝えたいことがある。「私たちのために働いてくれてありがとう。でも、仕事より命の方が大事やで」 【写真】26歳で過労死した医師の遺族らが「家族会」立ち上げ 「仕事で命を落としてはいけない」 ■新しい働き方、自ら示したい 父の森川正敏さん=当時(41)=は2002年5月、小学2年の時に過労自死した。父の記憶は、おぼろげだ。夜寝た後に帰宅し、起床前に出勤する。親子のコミュニケーションは、ほとんどが手紙だった。 「からだにきよつけてね。いつもおしごとありがとう」「かぜとはなじをはやくなおしてね! びたみんしーをとらなくちゃね」。チラシの裏に、無邪気につづった。 朝、返事が置いてある。「お父さんは、文音ちゃんのやさしい心がとてもすきです」。しかし、次第に帰宅できない日が増えた。正敏さんは書いた。「生きる目標を失いつつある」「うつの最中に辛(つら)い」。自らを責め、悲嘆する言葉が並んだ。そして「この世から消え去りたい」と考えるまでに追い詰められていった。 □ □ 兵庫県芦屋市職員だった正敏さんは、実直できちょうめんな性格。入庁20年目の1999年春、新設の行政改革・復興担当係長に昇進し、阪神・淡路大震災からの財政再建を担った。 重責だったが、周囲にはやりがいを感じているようにも映った。しかし徐々に業務量が増え、翌00年夏には残業が毎月100時間を超えた。「1日でも休めばだめになる」。責任感で働くうちに疲弊し、頭痛や吐き気、不眠などの症状を家族に訴えた。01年、うつ病と診断された。 入院療養を経て復職した02年5月のある夜、行方不明になった。文音さんは子どもながらに嫌な予感を覚えた。6日後、母の森川えみさん(62)=神戸市垂水区=から「交通事故で亡くなった」と告げられた。 えみさんには忘れられない出来事がある。死後すぐの頃、泣きっぱなしだった文音さんが叫んだ。「夢やと思う。覚ましたいから刺して」「いつまで私はこの夢を見ているの」。小さな手には、台所から持ち出した包丁が握られていた。 □ □ えみさんは、民間の労働災害に当たる公務災害申請に奔走した。文音さんは中学1年の時、パソコンの申請書類を見つけて母を問い詰め、父の自死を知った。ただ真相を知っても理解しきれず、深く考えないようにしてきた。 大学生になり転機があった。一つは、自死の経緯をえみさんに尋ねたこと。もう一つは就職活動だった。「父のような人を出さない」と訴え、人材派遣大手に就職した。組織にとらわれない働き方を自ら示そうと22年に退職、ウェブサイトへの集客を促すマーケティングなどを手がける。 兵庫高の体育館。父の話を人前でするのは初めてだった。「働き盛りのお父さん、お母さんに命を大切にしてと伝えて」。生徒たちに届くように呼びかけた。 長い時間が過ぎたが、向き合うほどつらくもなる。父と交わした手紙は、ほとんど読み返せていない。それでも「子どもの自分だから伝えられることがある」。文音さんは、母と亡き父と新たな人生を刻み始めている。(竜門和諒) ◆ 配偶者が、親が、子が「使いつぶされた」-。無念を繰り返すまいと、遺族らの尽力で14年6月、過労死防止法(過労死等防止対策推進法)が成立した。遺族の思い、10年の変化、課題を整理する。