渡辺恒雄氏 星野氏うなった80歳朝8時ノック 阪神SDを巨人監督に…ホテルオークラ幻人事の舞台裏
◇渡辺恒雄氏死去 【悼む】政界、マスコミ界などの識者から「戦後最大の政治記者」と評された渡辺さんは昭和30年代、大野伴睦自民党副総裁の側近として政治舞台の表裏で辣腕(らつわん)を振るった。当時を振り返って「鳩山一郎さん(元首相)に食い込むために連日連夜、音羽御殿(鳩山氏の自宅)に通ったよ。最初は全く相手にされなかったが、しばらくして中に入れてもらえるようになった。後に総理大臣になった由紀夫君、邦夫君(元文部相)とお馬さんごっこをやったよ。記者で勝手口から台所を通れたのは俺だけだ」と懐かしんでいた。 野球には「ほとんど関心がなかった」という渡辺さんは96年12月16日、巨人軍オーナーに就任。直後の24日に数人のスポーツ紙記者と懇談会を催した。「今日は野球の専門家である皆さんのご意見をうかがう勉強の機会」だったはずが、アルコールが進むと独演会。「記者には他紙に朝刊で特ダネをスッパ抜かれた時の備えが必要だ。引き出しにいつでも書けるお返しの匕首(あいくち)を入れておいて、夕刊で打ち返すんだ。読売で編集局長賞を最も多くもらったのは俺だよ」とパイプの煙をくゆらせた。 オーナー就任前の93年3月にはライバル関係だった西武の堤義明オーナーと極秘会談。ドラフト撤廃、FA導入などで意見を交わすなど水面下の動きで球界内外に衝撃を与えたが、最も驚いたのは05年。阪神・星野仙一シニアディレクターの巨人監督招聘(しょうへい)に関する動きだ。巨人と星野氏の交渉役は誰か。固く口を閉ざしていた星野氏から2年後に真相を聞いた。 「あの年の夏、東京のホテルオークラに泊まっていた俺の部屋に朝8時ごろ、ノックがあった。パジャマ姿でドアを開けると、渡辺さんが一人で立っていた。ひげ面で慌てる俺を諭しながら渡辺さんは“巨人の監督をやってもらいたい。詳しいことは滝鼻(巨人オーナー)と話してほしい”と言ってお帰りになった。80歳(当時)の行動力、バイタリティーに恐れ入った。さすがは超一流の新聞記者だ、とうなったよ」 何もかも規制、抑制、忖度(そんたく)の昨今。新聞記者の取材活動も例外ではない。お馬さんごっこも寝室直撃も「昔話」で片付けられてしまいそうな気がする。「最近の政治記者は楽だな」とつぶやいた渡辺さん。最後の匕首は何だったのだろう。(スポニチ特別編集委員・宮内正英)