正式引退から今日で44年…なぜ「山口百恵」は愛され続けるのか 全楽曲を手掛けたプロデューサーの証言「光と影の両面を併せ持つ歌手だった」
さだまさしに「秋桜」を依頼した理由
阿木・宇崎夫妻と百恵さんはその後もヒットを飛ばしたものの、酒井氏はあえて曲調の違う「パールカラーにゆれて」(1976年、作詞・千家和也、作曲・佐瀬寿一)なども用意した。 「これも百恵さんの多面性を生かすことが目的ですし、ファンを飽きさせないためでもあったのです」 さだまさしに「秋桜」を依頼した理由も同じ。 「百恵さんの突っ張りのイメージが強くなり過ぎていた時期だったので、それを少し落とそうと思いました。さださんにお願いしようと思ったのは、突っ張りと真逆だからです」 酒井氏の要請に百恵さんが全て応えられたのは、持って生まれた才能があり、努力も惜しまなかったからにほかならない。
引退は惜しくなかった
もっとも、人気絶頂時の1980年に百恵さんは引退する。活動期間は約8年に過ぎなかった。まだ21歳と若かったこともあり、酒井氏は残念だったのではないか。 「いいえ。周囲からは不思議がられましたが、残念とか惜しいとかの思いは全くありませんでした。さまざまな楽曲がつくれて、プロデューサー業を満喫させてもらいましたからね。百恵さんとの仕事は実に楽しかった。だから『幸せになってほしい』という気持ちしかありませんでした」 阿木・宇崎夫妻による引退ソング「さよならの向こう側」は酒井氏にとっては会心の出来だったという。酒井氏ははっきりと口にしなかったものの、百恵さんへの祝福として最高の曲をプレゼントしたかったのだろう。 百恵さんの人気が続く理由はまだある。現役時代から現在に至るまで、悪い評判が一切ない。現役時代も引退後も醜聞が流れたことはない。 真面目である上、「デビュー当初から周囲との良好な人間関係を自然とつくれる人だった」からだろう。 いまだ復帰待望論があるのもうなずけるが、「100%ない」というのが関係者の一致した見解。やはり大スターでありながら、43歳で引退すると、二度と表舞台に立たなかった故・原節子さんのような存在と考えるべきなのだろう。 高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ) 放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年にスポーツニッポン新聞社に入社し、放送担当記者、専門委員。2015年に毎日新聞出版社に入社し、サンデー毎日編集次長。2019年に独立。前放送批評懇談会出版編集委員。 デイリー新潮編集部
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