「あの時、ユーミンはショービズの神様に守られてると思った」40年間ライブをサポートしてきた武部聡志がもっとも驚いた事件【松任谷由実×武部聡志】
ユーミンのライブにある強い信念とは
――その後、83年から武部さんは由実さんのライブで音楽監督を務めるようになります。 ユーミン あれは「REINCARNATION」ツアーの時だった? 武部 そう、鮮明に覚えています。初日がユーミンも初めて日本武道館でやるという7月6日。ものすごく気合いが入っていたし――。 ユーミン 画期的だったよね。 武部 ユーミンも僕らも、スタッフに至るまで、みんなで歴史を作るんだという意気込みがあって。 ユーミン うん、誰もやっていないことをやったね。例えばバリライト(色彩や光量、光の方向を遠隔操作するシステム)がまだなかった頃に、“人間バリライト”というのをやったりとか。ひとつのスポットライトが……あの頃はどれくらいの大きさだったかな。 武部 小さいのじゃなくて、ピンだもんね。スタッフが何十人もうしろに付いて。 ユーミン 照明の人たちがまるでコンチェルトのように集まり、プランナーの指揮に合わせるかのようにして、ここではこの角度で光を当てるというリハーサルを何度もした。曲のテンポに合わせて、光を波打たせるとか。それをすべて人力でやるんです。 それからちょっとして、フィル・コリンズが在籍したジェネシスのツアーで、初めてバリライトが使われてね。 武部 みんなのテンションが高かったし、達成感もすごくありました。その後、87年の「DIAMOND DUST」ツアーから松任谷さんが演出するようになると、やはりユーミンの音楽をいちばん理解しているわけだから、音楽の世界と演出の親和性がより高くなっていって、90年の「天国のドア」ツアー頃までは、毎回新しい機材を導入する実験のような場でした。つねに刺激的でしたね。 ユーミン 最初にまず苗場で試して、それをツアーに持っていく。ライティングのタイミングがコンマ数秒ずれても気持ち悪いから、それを全部打ち込みにしていったりとか。 武部 音楽とライトをシンクロさせるために、当時は僕が電飾のスタジオに行って、打ち込んだりもしましたよ。 ユーミン だから私たちは“ライト兄弟”なんです(笑)。そこからいろいろなレギュレーションが進化していったし、武部さんは音楽監督ではあるけれど、アートを作り上げる一員として、ミュージシャンたちを牽引してくれていたと思います。 武部 ポップミュージックとしてショーの完成度を高めていくという意味では、ユーミンが先駆者ですよね。今ではいろいろなアーティストがやっているけど、当時はコーラスが踊るなんてありえなかった時代だし。 ユーミン マドンナよりずっと早かったよね。インカムを付けて、一緒に踊ったのは。 武部 1988年の「Delight Slight Light KISS」ツアーの時には、上下するセンターのステージからユーミンが――。 ユーミン 落ちたんだよね。ステージがあると思って後ろに下がったら、あれ、ないなって。 武部 ゲネプロの時だったけど、それはもう驚いたこと。 ユーミン あの時、竹ひごみたいなワイヤーの入った、四角いスカートをはいていたんですね。それをはいていなかったら、背骨が折れて死んでいた。でもワイヤーがクッションになって、助かったんです。 武部 だから怪我ひとつなくて。 ユーミン ね? 何かに守られてますね。 武部 「REINCARNATION」ツアーで音楽監督を務めてから、もう四十数年でしょう? でも調子が悪くてステージを飛ばしたとか、中止したとかいうことが、ユーミンはいっさいないもんね。 ユーミン うん、ないね。捻挫していてもやってたから。 武部 天候の問題でできなかったことはあるけど、ユーミンの都合でショーがなくなったことは一度もない。それは本当にすごいことです。やはり並外れた集中力と気合いみたいなものを持ち合わせているからこそ、これまでいろいろなことを乗り越えてこられたんでしょうね。 ユーミン 山伏の火渡りみたいな(笑)。心頭滅却すれば、なにも熱くないっていう。だからできちゃう。 武部 なによりユーミンはショービズの神様に守られているんだと思う。 ユーミン ああ、そうかもね。 武部 やらなきゃいけない人として、神様からミッションを与えられてるんだと思いますよ。 #2に続く 取材・文/門間雄介 撮影/伊藤彰紀 武部聡志ヘアメイク/下田英里 松任谷由実ヘアメイク/遠山直樹
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