蛭子能収 テレビの世界の扉を柄本明さんが開けてくれた
オンリーワンの存在感で、タレントとしても活動する漫画家の蛭子能収さん(68)。今年公開された映画「任侠野郎」では主演も務め、さらに仕事の幅を広げています。また「京都国際映画祭2016」(10月13~16日、よしもと祇園花月や京都市役所前広場など)内の催しとして作品展「えびすリアリズム」(元・立誠小学校)も行い、改めてアーティストとしての顔も見せています。まさにマルチな展開を見せる蛭子さんですが、その原点を作ったのは俳優・柄本明さんだと言います。
若い頃から漫画家になりたいとは思ってたんですけど、なかなかそれだけでは食えなくて。ずっと並行して普通の仕事もしながら、漫画も描いているという状態が続いていたんです。 やっと30歳過ぎになって、漫画一本で食っていけるようになってきたかなというあたりで、事務所に柄本明さんから一本の電話があったんです。柄本さんがやっている「劇団東京乾電池」の公演ポスターを描いてほしいって話で。 こう話すと、柄本さんと昔から付き合いがあったみたいに思われるかもしれませんけど、全然接点はなかったんです。なんかね、オレの漫画「地獄に堕ちた教師ども」(81年)をおもしろいと思ってくれたみたいで、その漫画をきっかけに連絡をくれたんですけど、ま、オレにしたら、仕事だし、もちろんお金ももらえるし(笑)、ありがたいじゃないですか。普通に、一つの仕事としてお受けしたんです。 公演ごとにポスターを描くということを結局10公演ほど、2~3年くらい続けたと思うんですけど、ポスターを描くうちに柄本さんが言ってきたんです。「蛭子さん、ウチの芝居に出てくれませんか」と。でも、オレ、自分の姿かたちを人に見せるのが好きじゃなかったので「それはちょっと…」って断ってたんです。でも、あまりにも、あまりにも、何回も言われるので、オレも性格的に断り切れなくなってきて。「…ま、じゃあ」と出たんです。それが1987年だから、今から30年ほど前のことです。 役柄はね、全然セリフのない、黒人の役でした。言ったら、顔を黒く塗って舞台の端っこでポツンといるような役。といったって、お芝居もやったことがないオレが何かそこで見せられるわけでもないし、うまいわけもないんです。 しかも、今、オレ、お葬式で笑っちゃう“不謹慎キャラクター”みたいなことをテレビなんかでも言われたりしますけど、よく考えたら、その当時から、そんな気配がありまして。全然笑う場面じゃないところで、なぜかすごく笑っちゃうんですよ(笑)。だから、なおのこと、役者としては全くダメですよ。できないうえに、芝居も壊しちゃうんですから。でも、その舞台を何のご縁かフジテレビのプロデューサーが見てまして、公演後すぐに「笑っていいとも!」に出てくれってなったんです。