【剣劇役者・浅香光代】サッチー・ミッチー騒動から四半世紀…気風が良くて義理堅く、情の人でもあった生き様とは
「川の流れと同じ。逆らわない」
気っ風が良くて義理堅く、負けず嫌いで意地っ張り。細かな気遣いを見せる「情の人」でもあった浅香さん。経歴について簡単に触れてみよう。 1928(昭和3)年2月、東京・神田の生まれ。盆も正月も祭りもない侘しい暮らしだったという。父親が株で失敗。母親が働く料亭の常連客に紹介され、9歳のころ新興キネマの映画俳優だった浅香新八郎(1906~1944)と森静子(1909~2004)の内弟子となった。 14歳のとき独立。新生国民座の少女座長となり、師匠の「浅香」をもらって「浅香光代」とした。戦前戦後を通じて女剣劇の役者として活躍する。 ヤンヤ、ヤンヤの人気を呼んだのは、激しい立ち回りだった。着物の下から真っ白な太ももが見えてしまうことが何度もあった。男らしく勇ましい演技を見せても、ほんのわずか、もろ肌をチラリとのぞかせる姿が何とも悩ましかった。 「周りからは『品のない剣劇』と陰口をたたかれました。『女を武器に客を釣るのは邪道だ』とまで言われたんです。でも、格好なんかかまっちゃいられなかったわよ」 長かった戦争がようやく終わり、人々が娯楽に飢えていた時代でもあった。浅草松竹演芸場では、押すな押すなの人気に10カ月の続演になったこともあったという。 80年超の芸能生活。浅草寺の北側にあたる「奥浅草」と呼ばれるあたりに自宅兼事務所があった。下町情緒あふれる土地柄である。浅香さんは「昔、こんな話があったのよ」と前置きしたうえで、 「シャケ(鮭)2切れ、340円で買って、千円札を1枚出したら、7千円のお釣りがきた。『苦労してんだろ。祝儀だ。持ってけ』と言うんです」 貧乏のつらさは骨身にしみた。亡くなった母親の遺言は「カネがないと人生駄目だよ」。でも、浅香さん自身、金に執着する気持ちはさらさらなかった。株も手がけたが、「川の流れと同じよ、逆らわないの」。 恋多き女性だった浅香さん。大物政治家との間にできた子どももいた。大物政治家って誰なのか? 晩年、あれこれ臆測が飛び交ったが、本欄ではこのことについては触れないでおこう。ただ、生まれてきた子どもを立派に育てたことは忘れないでほしい。人間・浅香光代は、やはり義理堅い人でもあった。