オアシスとブラーによる名盤リリースと論争、カート・コバーンの死…ブリットポップとオルタナが交差した1994年が、ロックの“最後の盛り上がり”だった?
カート・コバーンの死
他方、アメリカでその頃盛り上がっていたのはヒップホップとグランジだ。 ニルヴァーナのアルバム『Nevermind』とシングル「Smells Like Teen Spirit」、レッド・ホット・チリ・ペッパーズの『Blood Sugar Sex Magik』などがリリースされたのが1991年。 同年にはオルタナバンドをメインにしたフェス「ロラパルーザ」が開催され、1992年にはレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのデビューアルバム『Rage Against The Machine』も発売された。 そもそも「オルタナ」とは音楽性を指すのではなく、メジャーシーンとは別の活動をしているバンドの総称だ。 80年代のカレッジラジオで人気のあったR.E.MやNYのアンダーグラウンドで活動していたソニックユースなどのバンドにこの呼称が使われ始め、ニルヴァーナ、ダイナソーJr.などのグランジロックや、レッチリ、レイジなどのミクスチャーロック、そして一部のヒップホップなども包括して「オルタナ」の枠が出来上がっていった。 そんなオルタナ界に激震が走ったのが1994年のニルヴァーナのフロントマンだったカート・コバーンの自殺である。グランジのカリスマだったカートが亡くなったことはファン以外にも大きな衝撃を与えたが、彼の死でシーンが沈静化することはなく、逆にオルタナの波は広がっていった。 そして1994年にはベックの1stシングル「Loser」とメジャーデビューアルバム『Mellow Gold』が発売される。 伝統的ブルースにヒップホップをミックスさせ、インターネットが当たり前になったデジタル世代のヤク中が“俺は負け犬”と歌う「Loser」はナショナルチャートこそ10位だったが、オルタナチャートでは1位を獲得。グランジは絶望をハードな音にのせて歌っていたが、絶望を超えた虚無から現れたようなベックの登場はグランジの次の世界の音を鳴らしていた。 その後ベックは音楽性を深化し、サウンド面でもトレンドセッターになっていくが、轟音と肉体的な強靱さを音楽に投影したオルタナミュージックが幅を聞かせていたなか、クールなベックの登場は、カートの死ともあいまって、今思うとこの時代の偶然の必然を感じた(というのは言いすぎですかね)。 ※ ブラーはその後、休止と再結成を繰り返しながらも、今年はアメリカ最大のフェス「コーチェラ」に出演した。兄弟の不仲が原因で解散したオアシスは、もはや再結成はありえない状態で、リアムは昨年のサマーソニックに、ノエルは今年のフジロックに出演する。ベックやレッチリは最近来日公演をしたばかりである。 もちろんこうしたバンドはいまでもバリバリの現役だが、そのライブの高揚感にはかつて熱かった時代への郷愁も含まれているのではないかとも思う。1994年はロックが盛り上がったラストディケイドがスタートした年なのかもしれない。 文/高田秀之
高田秀之