オアシスとブラーによる名盤リリースと論争、カート・コバーンの死…ブリットポップとオルタナが交差した1994年が、ロックの“最後の盛り上がり”だった?
ブラーとオアシスはなぜ対立したのか
ノエルとリアムのギャラガー兄弟がソングライティングの中心だったオアシスは、1994年にデビューシングル「Supersonic」を発表すると、すぐに注目を集め、アルバム『Definitely Maybe』は全英初登場1位を獲得。 現在までにイギリスだけで200万枚、全世界で500万枚の売り上げを示し、「ビートルズの再来」と評されるほどだった。 音楽性は違えど、彼らもジャージやモッズコートを好んで着込み、オアシスとブラー、そしてスウェードやパルプなどのバンドが「ブリットポップ・ムーブメント」の中心になっていった。 するとロック界で語り継がれる「ブリットポップ論争」と呼ばれる騒ぎが起きる。マスコミが、2大人気だったブラーとオアシスをライバルに見立て、それぞれのファン心理を煽っていったのだ。 翌1995年にはブラーとオアシスのシングルが同日に発売されることがアナウンスされると、どちらがチャートの上位になるかがファンだけでなく国民的な関心を集め、BBCニュースでも報じられたほどだった(結果はブラーのシングルの売り上げのほうが6万枚多かった)。 この対立の原因は、オアシス=ワーキングクラス、ブラー=ミドルクラスという出自の違いが生んだと言われている。しかし実際には当時のイギリス経済は1970年代にパンクが生まれたときのようなどん底状態ではなく、ファン同士もお互いをそれほど敵対視していたわけではない。 ひとえにバンドサイドの、どちらかというとブラー側が仕掛けた戦略で、それに口の悪いノエルがブラーのことを「スノッブなロンドンの奴ら」と言ったり、「エイズにかかればいい」(この発言はのちに謝罪&和解)と暴言を吐いたりしたことで、火に油を注いでいった。 ガチの喧嘩ではなく、言ってみれば業界を盛り上げるための「プロレス」的演出だったのである。 どちらのシングルが多く売れるかについても、いまから思えばそれがどうしたという感じだが、若干微笑ましくもあるこのエピソードが国民を巻き込んだ話題になったことをもってしても、当時のイギリスでブリットポップがいかに盛り上がっていたかがわかる。 英国的な伝統を継承したブリットポップは、英国的ゆえに世界的なトレンドにはならず、結局ブラーがアメリカでブレイクすることはなく、イギリスでは『Parklife』以降、昨年発売された最新作まで全て全英チャート1位を獲得しているが、アメリカではトップ10にすら入らなかった。 デーモンがトップ10入りを果たしたのは、その後に組んだゴリラズのアルバムである(オアシスは2ndと3rdがアメリカでトップ5に入っている)。