<熊本地震>前を向いて歩いていく 日常生活の場として機能し始めた避難所
避難所と聞けば、人々が布団の上に呆然と座り込んだり、炊き出しに並んだりするシーンが思い浮かぶ。しかし、本震から1週間以上が経ち、約350人が身を寄せる熊本県西原村の河原小学校では、避難所がそれぞれの日常生活の場として機能し始めている。ここから会社に出勤する人、農作業に向かう人、避難所をより快適な空間にしようと努力する人……。緊迫した避難所とは違う風景が見えてきた。
24日午前6時半。外構資材会社勤務の緒方崇博さん(31)がジャージ姿で、校舎近くに停めているマイカーに乗り込んだ。妻と幼い娘2人と体育館で寝泊まりしており、車でスーツに着替え、営業車で出勤するのだ。この日から本格的に会社の業務が始まった。昼は愛妻弁当に代わり、味気ないカップ麺だ。 「わがままは言えないが、夜、晩酌して、少しゆっくりしたい」と話す。 家族4人で避難している、火葬場に勤める男性(35)は、週末、実家の農業を手伝った。 「平日も週末も忙しく、開いている遠方のスーパーに買い出しにも行けない。避難所に頼るしかない」 西原村の特産、サツマイモは今が苗植えの最盛期だ。堀田芳治さん(75)、美津代さん(75)夫婦は、避難所での朝食もそこそこにトラックで畑に向かった。苗は植え替え前に伸びすぎると、良質のイモが育たない。地震の数日後には、なんとか無事だったビニールハウスから苗を切り取る作業を始めたという。品種は、数年前に村で生まれた、絹のような食感が人気の「絹おとめ」だ。 「ここはひび割れて、向こうは波打っていて、だいぶ、やられました」 畑に着くと、美津代さんが説明してくれた。苗付けができない畑も多い。サツマイモ約200キロを入れていた貯蔵庫は傾き、扉が開かなくなり、出荷は諦めた。40年以上、農業をやってきたが、こんな被害は初めてだ。 「でも、生きていかないけん。苗は植えなきゃ」
会社員、緒方伸行さん(57)は、給食班長。被災以来、住民自らが炊き出しを続けており、その陣頭指揮を執る。 自衛隊在籍35年。当初、水が限られているなか、皿洗いに苦労する仲間の姿を見て、隊の野外演習での知恵を思い出した。皿に、支援物資として届けられたナイロン袋を敷き、そのうえにおかずを盛りつければ、袋を捨てるだけで、毎食ごとに皿を洗う必要はない。以来、その「緒方方式」で毎回、食事が提供されている。 避難生活のめどは見えない。 「一人でも十人でも百人でも一緒。避難する人がいる限り、支えなければ」と緒方さん。 救援食材の仕分けを一手に担うのが、大学助教授の田辺香野さん(29)だ。届いた保存食が並べられた体育館舞台で物資を引き渡しているうちに、期限間近のパンや菓子を手前に置くなど、いつのまにか仕分けのプロに。まだ断水中の自宅から毎日、避難所に通う。 ここ数日、届けられたペットボトルの中に開封され、かすかに量が減っているものが複数見つかった。 「一本ずつチェックして、お渡しするようにしている。気が抜けない」と気を引き締める。
消防団員、東正幸さん(43)は会社から避難所に帰ると、消防団の制服に着替え、午後7時から約1時間半、ほかの団員とともに地区の集落を巡回する。 ともに避難している妻の直美さん(40)は第一子を妊娠中で、5月中旬に出産を控える。自宅の賃貸アパートはトイレなども壊れ、住むことができる状況ではない。学校に近い実家も半壊状態だ。 「いろいろと考えることが多すぎて、子どもの名前を考える余裕さえない。出産後、家族3人でどう暮らせばいいのかさえ、わからない。ただ、健康で元気な子どもが生まれてきてほしい。いま、赤ちゃんのことを考えることが、一番の楽しみですね」 (取材・文・撮影:木野千尋)