「祖父がぼろぼろ泣いた」一家全滅の悲惨な最期 満州に渡った大叔父 「検閲済」…80年経て見つかった手紙に記された「真実」 #戦争の記憶
戦時下、満州に渡った長野県の更級開拓団の一員だった大叔父
長野市川中島町今井の市パート職員、宮本博夫さん(64)が、戦時下に満州(現中国東北部)へ更級郷開拓団の一員として渡った大叔父(祖父の弟)の義徳さんから届いた手紙や写真を大切に保管している。開拓民として新天地で暮らした頃の率直な思いが伝わる。一家はソ連軍の銃撃などで全滅した。地元の開拓団の記憶が地域で薄れる今、満州の状況や内地との交流の様子も分かる貴重な資料だ。(井口賢太) 【写真】宮本義徳さん夫妻と長女サキ子ちゃん(手前左)、長男忠徳ちゃん=1941年3月20日
ソ連軍の一斉砲撃受け開拓団壊滅、一家は「悲惨な最期」に
更級郷開拓団は、現在の長野市や千曲市の千曲川以西にまたがる旧更級郡の町村が送出。40年2月にソ連との国境に近い東安省宝清県に入植し、約500人(終戦時)が暮らした。ソ連の対日参戦で逃避行を余儀なくされ、一斉砲撃を受けて壊滅した。 義徳さんは更級郡信級村(現長野市信州新町)の出身。34歳で満州に渡り、妻や子どもたちと暮らした。1943(昭和18)年に長男が病死。45年8月のソ連の対日参戦で逃避行中、妻、長女、三男と共に死亡し、次男も収容所で病死した。「言葉にできないほど悲惨な最期だ」と宮本さん。村を代表して村長代理が読んだ弔辞に「祖父はぼろぼろ泣いた」と聞いている。
開墾の様子や演芸大会を楽しむ新天地での生活
写真は義徳さんが一時帰国した時に持参。入植地にできたれんが造りの国民学校校舎や、トラクターで農地を開墾する様子、家屋が並ぶ風景などを切り取っている。多くの団員家族が集まって演芸大会を楽しむ一こまもある。 宮本さんの父幹夫さん(義徳さんのおい)が保管していた。宮本さんは2014年の幹夫さんの死後、実家で手紙を発見。さらに昨夏、土蔵を整理していて残りの手紙を見つけた。 幹夫さんは生前、義徳さん一家に触れることをはばかっていたという。宮本さんは「80年近くたって一家の記憶がよみがえり、真実を知らされた」と感じている。
開拓団の事情や故郷とのつながりが克明に書かれた手紙
宮本博夫さんが保管する義徳さんの手紙からは、父や兄家族への細やかな気遣いが伝わり、離れて暮らしてからも産物のやりとりなどで心安い関係にあったことが分かる。満州へは家族の反対を押し切って渡ったためか、内地に比べて良い所だ―と訴える記述も目立つ。宮本さんは「開拓団の事情や故郷とのつながりが克明に書かれ、当時をほうふつとさせる」と話す。 宮本さんによると、義徳さんは満州へ渡る数年前に自宅を新築。炭の検査員の仕事にも就いていた。義徳さんの兄夫婦は「なぜ満州へ行く必要があるのか」と反対した。一方で宮本さんは、義徳さんが地元で郵便の取扱拠点の仕事を望んだが、かなわなかったと聞いている。炭の検査員の仕事が地域の人に疎まれやすかったことも、満州へ渡る決意に影響した可能性がある。