「祖父がぼろぼろ泣いた」一家全滅の悲惨な最期 満州に渡った大叔父 「検閲済」…80年経て見つかった手紙に記された「真実」 #戦争の記憶
多くは「検閲済」の印、過酷さの記述はそれほどなく
義徳さんが実家に送った手紙は20通あり、父や兄たちに宛てた。満州に渡る前に過ごした県御牧ケ原修練農場(現小諸市)からの手紙には、満州への憧れと共に、反対した兄たちへの申し訳なさがつづられている。 満州に渡ってからは「見渡す限り広々とした草野原。三里四里行っても山は無い」と記述。「我等(われら)の手に依(よ)って一鍬(くわ)一鍬と開拓」されていくと記し、新しく家や道路ができていく様子や、農作物の収穫の喜びも伝えている。 「満洲北辺を護(まも)る産業戦士」などと勇ましい言葉で開拓団の意義を訴える箇所もある。夜警歩哨では戦場に立つのと同じ重責を感じる―と、銃を持つ緊張感にも触れた。 多くは「検閲済」の印が押されている。暮らし向きは良かったとも受け取れる一方、検閲を受けるためか、家族を安心させるためか、過酷さはそれほど記していない。 義徳さんのめいで、宮本さんの伯母に当たる羽田むつさん(97)=大町市=宛ての一通では、1940(昭和15)年3月にむつさんの母親(義徳さんの義姉)が急死したことを慰めている。長男をアメーバ赤痢で失った無念を切々とつづった手紙もある。