探究する道のとおく(後編)「危機感というか、バスケが終わってどうするのかな、みたいな」(Bリーグ・大阪エヴェッサ 牧隼利)
ほとんどの選手は引退後の生活について漠然とした不安を抱えているだろう。 いわゆるセカンドキャリアについての懸念。 プロスポーツとしての発展を急速に遂げたバスケット界において、この問題はさらに深刻化していく恐れが強い。 しかしどれだけ準備に余念がなかったとしても、この予測不能な時代、5年後、10年後には世界が激変している可能性が高い。 取り組んでいることから意味が失われてしまうかもしれず、終わりがわかっているのに動けない。 そんな選手も多いかもしれない。 それに数年後、大きく変わっているのは世界ではなく自分だったりもする。 若いころは指導者を志していた元プロ選手が、引退してアラフォーながらコーヒー屋のバイトをやってたりする。 そこまで極端な例ではないが、様々な発信や活動を通し、順調に『その日』に向けてことを進めてきたと思われていた牧にも心境の変化は訪れた。 「(引退後は)指導者をやってみたいなって。今まで思ったこともなかったのに、むしろ嫌だって思っていたのに、本当にこの1年くらいで思ったりしますね。」 苦手だったピーマンがある日急に食べられるようになったり、嫌いだったクラスメイトの意外な一面をたまたま見かけて気になり始めたり、やりたくなかった指導者をやってみる気になったり。 人間というのは気まぐれで謎に満ちた生き物だが、しかし変化のそばには理由があることが多い。 「これからプレミアとかになるにつれて、果たして日本人選手の価値ってなんだろうみたいなところをすごく…プレーヤーとして感じる場面がこの5年間で増えてきた気がしていて。バスケットの人気が上がってきて、年棒も高騰しているみたいなことも聞きますが、これって本当にその価値があることなのだろうか、みたいなところにすごく疑問があるというか。それをプレーヤーとして感じているので、いま、自分が日本人プレーヤーとして感じているこの気持ちとか、モヤモヤを指導者という立場になって変えていくのが面白かったりするのかな、みたいなことは生意気に思ったりしています。」 経済活動においては消費者主権の概念が一般的かもしれない。 消費者に欲しいもの(需要)がまずあって、それを生産者が作り出す(供給)構造のことだ。 だが現代社会では供給が需要に先行し、欲求を生産している。 ”レジャー産業は人々の欲求や欲望に応えるのではない。人々の欲望そのものを作り出す。(中略)ガルブレイスはこう言っている。「一九世紀のはじめには、自分の欲しいものが何であるかを広告屋に教えてもらう必要のあるひとはいなかったであろう」。”(暇と退屈の倫理学, 國分功一郎, 新潮社, 2022) 資本主義下で市場は膨張する。 拡張の一途を辿る日本バスケットボールの経済価値と選手の本来的な価値の間の乖離が大きくなれば、現在の勢いはごく一時的なものに過ぎなくなってしまうだろう。 そしてそのズレはおそらくすでに生じてしまっている。 開きはじめた距離を埋めるための探究に、まずは選手としての時間を、そしてそのあとの人生をも費やしていく覚悟が、牧に芽吹き始めている。 (了)
石崎巧