スペインをEUROの優勝に導いたヤマル。エムバペを退け、ペレを超えた17歳の素顔と知られざる過去【現地発コラム】
「あらゆることから彼を守らなければならなかった」
ヤマルは、外国人の総人口に占める割合が32.8%(地元メディア『Capgros』による情報)に達するロカフォンダ地区(バロセロナ県マタロ―)で育った。いつもボールと一緒だったそうだ。誰の目にもとまらない地区で生まれ育った子供たちにとってはその過酷な環境から逃れるための永遠の味方だ。 その名残りは今も消えず、「ストリート上がりの選手特有のドリブルを持っている。恐れを知らない。年上の選手と一緒にプレーすることに慣れっこになっている」とジョルディ・ロウラは評価する。 ムニルは、シェイラとの関係が破綻するまで、職を転々とした。一方、シェイラは、近郊の街、グラノリェース(バルセロナ県)に引っ越して、マクドナルドで働きながら、生活を立て直した。現在、彼女には別のパートナーがおり、ラミネには弟がいる。ラミネにとって、父と母の間に距離が生まれたことは、カンテラの責任者にとって友達づきあいを管理することと同じくらい、時に処理するのが難しい問題だった。 ヤマルは7歳の時にバルサのカンテラに加入した。ジョルディ・ロウラは当時を回顧する。 「バランスが少し悪く、歩き方もおかしかった。でも突然、ものすごいボールコントロールを見せたり、とんでもないシュートを打ったり、他の誰とも違うフェイントを繰り出していた。すでに別格だった」 当時、ラミネはグラノリェースとマタロ―で交互に暮らしていた。練習場に連れて行くのは父親の役割だった。「他の親たちが1時間前に車で到着する中、3時間、4時間、時には5時間前に起きて息子を連れて行かなければならなかった。2人でいつも電車で通っていた。息子は寝てしまうこともあれば、遊んでいることもあった。子供じみたいたずらをされたこともあったよ。でも、彼はいつもとてもいい子だった」とムニルは振り返る。 当時、バルセロナはラミネに奨学金を与え、そのお金は両親が管理していた。しかし、この管理は解決策になるばかりか時にトラブルを引き起こした。バルサはラミネの未来を引き受けることにした。 「あらゆることから彼を守らなければならなかった」と当時、カンテラの関係者は語っていた。ラミネは13歳の時にラ・マシアに入寮した。「勉強、食事、休息時間を管理するためだった」とジョルディ・ロウラは説明する。 ラ・マシアはヤマルにとって、悪い仲間との関係を断ち切るための盾であり、成熟するための槍だった。いつしか自分自身でお金を管理し始めるようになり、こうした数々の経験が、精神的成長を促した。その際にカウンセリングを担ったのが、代理人のジョルジュ・メンデスに関わりがあるグループのスタッフで、分野はマーケティング、金融、コミュニケーション、スポーツヘルスと多岐に渡った。 こうした試みが、両親の介入を防ぐ壁にもなっていた。今、両親は、ヤマルが無名であった頃からずっとそばにいるような、お金にはなっても名声には繋がらない、昔からの関係を維持することを望んでいる。
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