【平成の記憶・サッカー編】中田英寿氏の衝撃と「パルマの夜に見せた素顔」
心のど真ん中へ、キラーパスを通されたと思わずにはいられなかった。パルマの中心地から車で30分ほど離れた郊外にある、イタリアの家庭料理が看板メニューの小洒落たレストラン。彼にとって2度目のワールドカップとなる、2002年の日韓共催大会を直前に控えていた中田英寿から切り出された。 「飲まないんですか? 緊張しているんですか?」 当時編集に携わっていたスポーツ雑誌で、サッカーに造詣の深い小説家、馳星周さんがヨーロッパを回る企画の担当になった。日韓共催大会開幕までに渡欧すること4度。そのなかで中田が所属していたパルマを訪れたときに馳さんが食事に招待され、筆者とフォトグラファーも同行させてもらった。 主役は誕生日を翌日に控えた馳さんだった。加えて、フォトグラファーが運転する車で来ていたこともあって、アルコール類を自重していた。見透かすように冒頭の声をかけてきた中田は、とにかく陽気で饒舌。それまでの日本代表取材などで抱いていた、寡黙で孤高なイメージを一変させた。 覚えているのは、当時35歳のFWカズ(三浦知良)を代表に復帰させてほしいと繰り返していたこと。中田も25歳になったばかりだったが、まだまだ背中で引っ張る存在ではないと自らを位置づけ、プレーヤーとしてだけでなく、精神的な支柱としてもカズが必要だと訴えていた。 そうしたやり取りから3年後の2005年3月。ジーコジャパンのなかでも年長の類となる、28歳になった中田は股関節痛を完治させ、約10ヵ月ぶりに日本代表へ復帰する。チームをさらに成長させると期待されたなかで逆に崩壊させかねない、不穏なオーラを放つ存在になった。 中田を欠いたジーコジャパンは、それでも2004年夏に中国で開催されたアジアカップを制覇。ワールドカップ・ドイツ大会出場がかかったアジア最終予選の大一番、イラン代表戦を直前に控えた状況で大黒柱が復帰し、トップ下ではなくボランチに入って福西崇史とコンビを組んだ。 そして、イラン戦直前に敵地テヘランで行われた練習中に、ボールの奪いどころをめぐって中田と福西が意見を衝突させた。高い位置で奪い、相手ゴールへ最短距離で迫る――。1998年からセリエAでプレーしてきた中田の価値観は、他のメンバーたちとあまりにも乖離していた。 「完成したチームがヒデさん(中田)の復帰で一度ぶっ壊れて、また作り上げている状態かな」 中田が不在の間にチームを引っ張り、トップ下で攻撃を差配していた中村俊輔もこんな言葉を残すほど、中田が立てた波風は大きかった。そして、ワールドカップ切符を獲得するまで一時封印されていた中田の意見や主張は、ドイツで開催されたコンフェデレーションズカップで再び解き放たれた。