ノア・齋藤彰俊が現役引退直前に独白「格闘技とプロレスを分けて考えたことはなかった」
11月17日、プロレスラー・齋藤彰俊(59)が現役生活にピリオドを打つ。最初は空手家として異種格闘技戦でプロレス界と交わるようになったが、そこからのレスラー人生はまさに波乱の連続だったといえよう。W★INGでの格闘3兄妹、“虎ハンター”小林邦明との壮絶な喧嘩マッチ、そして三沢光晴との対戦で起きたリング禍──。大会を直前に控えた齋藤がこれまでのキャリアを総括しつつ、熱いメッセージを投げかける!(前中後編の前編) 【写真】現役生活にピリオドを打つ齋藤彰俊 【1・コソコソ空手道場に通う水泳エリート】 少年時代からトップアスリートとしての片鱗を見せていた齋藤彰俊。一般的には“空手ベースのプロレスラー”と見られることが多いが、最初に頭角を現したのは水泳だった。種目は100mと200mの平泳ぎで、選手として目覚ましい記録を残している。学童新記録でジュニアオリンピック優勝を果たしたことを皮切りに、インターハイ、インカレ、国体、日本選手権などで軒並み優勝。鈴木大地とともにユニバーシアード、パンパシフィックの日本代表、オリンピックの強化選手にもなっているのだ。 「もちろん当時はオリンピックを目指していました。(中京)大学も水泳で入ったんですけど、ちょうど自分が卒業する次の年にソウル五輪があったんです。大学4年のときは日本記録を持っている選手に勝って優勝したので、これはいけるんじゃないかと思ったんですけど……ダメでした(苦笑)。肝心のオリンピック選考会で5着になっちゃったんですよ。まぁ残念だけど、勝負の世界だから仕方ないです」 水泳に没頭する一方で、“男として強くありたい”という気持ちも強かったという。『1・2の三四郎』(小林まこと/講談社)、『空手バカ一代』(原作:梶原一騎、著:つのだじろう・影丸譲也/講談社)などを貪るように読み、テレビのプロレス中継に熱狂した。 「空手などの格闘技とプロレスを分けて考えたことはなかったです。あの頃はウィリー・ウィリアムスが出てくるような異種格闘技戦もおこなわれていましたし。とにかく自分としては人間離れした存在に憧れていたんですよ。たとえば『空手バカ一代』にはカンフーの達人がビールジョッキを人差し指と中指で穴開ける場面が出てきますけど、雑誌で読んだ“スラム街で育ったロード・ウォリアーズはネズミを食べて生きていた”というエピソードと自分の中では同一線上にあったんですね。多少の誇張はあるにせよ、“こんなすげぇ奴らがこの世にいるのか”と純粋に信じていました。“ザ・グレート・カブキは顔面にナイフで傷つけられた痕が残っているのでペイントしている”などという話は、どことなくロマンも感じられましたしね」 そして実際に空手を始めたのが高3のとき。ファイターとしては、かなりの遅咲きといえる。水泳選手として将来を嘱望されていたため、空手でケガなどした日には指導者から大目玉を喰らうことはわかっていた。齋藤は隠れキリシタンのようにしてコソコソ空手道場に通い、目立たないように空手の大きな大会には出なかったという。 「入門したのは長谷川道場という極真会館系のところだったんですけど、当時の極真はかなりのスパルタでした。組手するときなんて周りを道場生たちにグルリと囲まれちゃって、後ずさりすると強制的に真ん中に戻されるんです。“やるか、やられるか?”みたいな殺伐とした雰囲気でね。そこから大学入学を機に引っ越したので、一時期は寸止めの伝統派空手をやっていた時期もあるんですけど、1年くらい経ったら今度はフルコンタクトの時代塾というところに身を置くようになりまして。その頃もメインはあくまでも水泳でしたけど」