「裕次郎とオレと3人で、日本映画の斜陽化を遅らせることはできたはずだ」…小林旭が語った21歳「伝説のスター」の衝撃的な死
あそこまでの大事故だったとは
すぐに駆け寄ると、顔の右半分が潰れ、目が飛び出していた。当時、このことは日活が目撃者らに伏せさせたという。 「最初に抱き起こしたのは私だけど、もう駄目だと思いましたね。頭から顔は血まみれで、吐血もすごかった。自分の背広が見る見る血に染まっていったのを覚えています」(前島氏) 小林旭はロケ先で事故の知らせを聞いた。 「あの日、オレは『銀座旋風児』シリーズの撮影で東京の大井競馬場にいた。監督を務めていたのは、それまでに赤木の作品を何本も撮っていた野口博志さん。そんなこともあってか事故のニュースは真っ先にオレたちのロケ現場に飛び込んできた。 『赤木が撮影所で自動車事故を起こしたようだ。まいったなぁ……』野口さんはかなり滅入っていた。裕次郎、オレに続く“日活第三の男”が事故にあったと聞いては、当然、頭を抱えるだろう。だが、まさかあそこまでの大事故だったとは思わなかった」
「もうだめだ」と聞かされて
赤木はすぐさま国領の慈恵医大第三病院に担ぎ込まれた。瀕死の重体だった。当日午後2時半の病院の発表では、 「頭蓋底骨折と脳内出血の疑いがある。いま、応急手当として酸素吸入と血圧の低下、化膿止めの注射を行っているが危篤状態で、これからのことはまったくわからない」 もはやと思われたものの、一時的に危機は脱する。だが意識不明の状態はその後も続く。 「長いロケを終えて、やっと事故から3日目に撮影所に戻ったんだが、その時には『もうだめだ』って聞かされたよ。言葉がでなかったね」(小林旭) そして事故から1週間後の21日、一度も意識が戻ることなく、彼は21歳の短い生涯を閉じたのだった。
裕次郎、小林旭に続く看板
赤木圭一郎は、東京・麻布出身。6人きょうだいの4番目で、父は歯科医だった。疎開先の鎌倉で育ち、昭和33年、鎌倉高校から成城大学に入学。その年の夏に日活第4期ニュー・フェイスに応募して日活に入社する。 当時は、日活映画の黄金時代だった。小林旭の回想。 「昭和30年代の日活に火を点けたのは裕次郎だった。特に、昭和33年以降の裕次郎の人気は半端じゃなかったね。そのスケールの大きさに、他の奴はもうそのつなぎ役でしかない。いやつなぎにもならないほどだった。なら、日活生え抜きの子飼いで、頑丈な小林旭を使えって、いいように働かされたよ。35年なんか裕次郎が年間4本のところ、オレはその倍以上は撮っていたからね。 要するに火を点けたのが裕次郎で、それを炎として燃え盛らせる役目をしたのがオレかな。そこに赤木が頭角を現してきたんだ。もう一枚の赤木という看板の出現で、会社に休みなしで働かされていたオレは、やれやれ、これで少しは休めるぞ、楽になれるぞって思ったよ」 昭和35年、日活は石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治の4人で“日活ダイヤモンド・ライン”を形成し、映画界を席捲した。