ドラマから実話へ
明るく朗らかな印象のクライアントのAさんが、いつも通り元気のよい挨拶と共に部屋に入って来ました。実はこの日のコーチングセッションの日程調整について、お互いの間に行き違いがあったので、セッションを始める前にお詫びを伝えてから、いつものようにセッションをスタートしました。 私はすぐに異変を感じました。Aさんの表情は硬直し、饒舌なはずのAさんの口が重くなっています。私自身もなぜか息苦しさを覚え、手や額が汗ばみ始めました。 「何かがおかしい」 私はセッションを一度止めて、その場で起きていることをAさんと共有しました。Aさんの表情、口数、声のトーンなど、伝わってくるものが普段と異なることや、私自身の体や心が、体験したことのない緊張を感じていることなどを手短かに伝え、Aさん自身はどう感じているかを尋ねました。Aさんは目を閉じてしばらく沈黙し、そして言いました。 「謝ってはいけません」 想定外の言葉でした。声のトーンもいつもと異なります。さらにその言葉は、私に向けたものなのか、Aさん自身に向けたものなのかもわかりません。Aさんはどこか上の空で、何かを思い出しているようにも見えました。 「何かを思い出していますか?」 そう聞くと、Aさんは私の目をまっすぐに見てうなずきました。 「栗本さんがセッションの前に謝った瞬間から、私はどこか緊張していました」 続けてAさんは、Aさんの父親との関係について話し始めました。Aさんは、尊敬する父親からリーダーとしての帝王学を授かってきました。その中でAさんは「謝る必要のある状況に陥らないよう、常に完璧に準備せよ」と肝に銘じてきたと言います。同時に、自分にも他人にも「完璧さ」を課し続けてきたと言うのです。
パラレルプロセスという心理現象
ここで興味深いのは、過去のAさんと父親との関係性が、現在のAさんと私との関係性に持ち込まれたことです。 専門用語で、こうした現象を「パラレルプロセス」と呼びます。パラレルプロセスは、コーチングやマネジメントの場面で、次の2つのパターンで表出するといわれます。 1.クライアントあるいは部下が、過去の人間関係のパターンやそこでの思いを、無意識にコーチ/上司に重ね合わせ、投影すること(転移と呼びます) 2.コーチや上司が、過去の人間関係のパターンや思いをクライアントや部下に対して投影すること(逆転移と呼びます) 実は、このパラレルプロセスは日常的に起こっています。 先日、あるコーチから相談を受けました。そのコーチは、あるクライアントが率直さやオープンさをコーチングの会話に持ち込んでくれず、無力感を覚えていると話し始めました。しかし話を聞いていくと、ぶっきらぼうに反応しがちなそのクライアントの姿が、過去に苦労したクライアントと重なること、その時も同じような無力な気持ちを感じたこと、ぶっきらぼうな相手は未だに苦手だということが見えてきました。つまりコーチ自身の「応じる」能力に課題があることが見えてきたのです。 マネジメントの現場でも、同じようなことが起こり得るでしょう。 あるマネージャーが言います。 「チームメンバーのエンゲージメントが低下している、これは、会社のビジョンやパーパスが示されていないからである、会社が変わらないといけない」 しかし、実のところそのマネージャー自身が、部下から受けるビジョンやパーパスへの疑問に対して十分に「応じる」ことができず、フラストレーションを感じているのかもしれません。部下がマネージャーに向けている疑問や、マネージャーが自身に感じているフラストレーションが、いつの間にか組織や上司に向けられ始めていく...。これもパラレルプロセスです。 人が他人を批判するとき、それは自分自身への何らかの批判的な気持ちだったり、その気持ちに対する自身の受け止め方(例:フラストレーションを感じる等)が背後にあるという現象は珍しくないかもしれません。 組織の中で繰り広げられるこうした心理現象に対し、私たちはどう応じることができるのでしょうか?