「生命だけは平等だ」…弟を3歳で失った怒りが、医療革命に走らせた 大阪に開業した病院は365日24時間無休…画期的な診療はドクターヘリ、DMATへつながった〈徳田虎雄さん死去〉
「生命だけは平等だ」-。10日亡くなった徳田虎雄さんは、故郷の鹿児島県・徳之島で実弟を助けられなかった無念を持ち続け、救急と離島・へき地医療の充実に人生をささげた。掲げた理想は国内外の医療人の心を捉え、徳田さんの下で広がった各地の医療は多くの命を救った。一方で、夢実現のために政治にも進出。激しい選挙戦を展開して多くの選挙違反者を生み、医師会や既存政党と対立した。 【写真】〈関連〉故郷の徳之島町に立つ徳之島徳洲会病院=11日
徳田さんが医療界に進んだ原点は戦後間もない小学3年生のころ、徳之島で3歳の弟が腹痛で苦しんだ末に亡くなった経験だ。自ら往診を頼みに駆け回ったが、なかなか応じてもらえず手遅れになった。 悲しみと怒りをエネルギーに医師となり、大阪府松原市に開業した病院は「365日24時間無休、保険証なしで診察可能」を掲げた。これが徳洲会グループの出発点となった。 当時、画期的な診療方針は評判を呼び、誘致する自治体は拡大。離島や過疎地にも次々と病院建設を進め、理想を実現していく姿に共感する医療人も多かった。 20代で鹿児島徳洲会病院の医師となった同病院名誉院長の飯田信也さん(63)=福岡県春日市=は「救急車のたらい回しが多かった時代から『救急車を断らない病院を日本中、世界中に造る』と大きな夢を掲げてまい進し、実現してきた。すごい人で、一つの時代が終わったよう」と惜しんだ。「救急医療だけでなく、離島の予防医療にも力を注いでいた」と数々の業績を評価した。
「医療に地域格差があってはならない」という理念を実現するため、新しい技術の導入と資金も惜しまなかった。鹿児島徳洲会病院で救急コーディネーターを務めた内山圭さん(56)=鹿児島市=は「病院を建てられない場所には医師が駆けつけるという考えが、ドクターヘリやドクターカーにつながった。一人でも多くの命を救うため、実行力と統率力を発揮した」と振り返る。1995年の阪神大震災では全国の徳洲会グループの医師らが神戸に参集して支援。現在のDMAT(災害派遣医療チーム)の先駆けにもなった。 積極的な病院建設は、地元医師会とのあつれきを生んだ。鹿屋市の大隅鹿屋病院の建設時、市医師会は反対した。当時を知る池田病院の池田徹会長(76)は「24時間365日の診療を徹底し救急も数多く受け入れてくれ、その姿勢にわだかまりも解けていった。今では大隅に欠かせない拠点の一つになった」とし、「地域医療への深い思いは、大隅の医療者に受け継がれている」と語った。
南日本新聞 | 鹿児島
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