日本兵の遺骨はすべて収容されるべきか…「幕引き」発言をした参議院議長の真意
祝辞で触れた、戦没者遺児としての悲しみ
遡ること5ヵ月前。2022年9月12日。この日、僕は、いつか必ず尾辻氏を取材したいとの思いを一段と強めたのだった。 天皇皇后両陛下が臨席した日本遺族会の創立75周年記念式典。新型コロナウイルス禍の最中だったため、会場となった都内のホテルニューオータニでの取材が許可されたのは、宮内記者会に所属する15社の記者だけだった。その限られた記者の中に僕はいた。 僕は会場の最後列で、式典の模様を眺め続けた。手元のメモを読み上げる岸田文雄首相の祝辞は形式的な内容で、特筆すべきことはなかった。しかし、続いて来賓として登壇した尾辻氏は違った。僕がいた位置から見た限り、尾辻氏はメモを見ていないように見えた。メモを見ていたとしても、誰よりも、自身の言葉を精一杯伝えようとしていた。 その内容は、戦没者遺児として育った半生に触れたものだった。 尾辻氏は、開戦前年の1940年10月、鹿児島県で生まれた。3歳のときに、海軍将校だった父が戦死した。その後の人生は、遺族会とともにあった。物心ついたときには、遺族会の会合でいつも母の隣に座っていた。夏休みの遊び場所は、会合が行われる護国神社の芝生だった。遺族会の少年部の一員だった。 少年部はやがて青年部となり、成り行きで鹿児島県の青年部長になった。大黒柱を失って生活が困窮した遺族たち。戦後、届けられた骨箱に、遺骨は入っていなかった。 「あとのことは心配するな、という国の約束はどこへいったのですか!」 そう叫ぶ母の声と姿が尾辻青年の活動の源となった。 母は、遺族会の活動に命をかけていた。ほとんど無給の事務局職員になった。細々と支給される公務扶助料を給料だと言っていた。そして、41歳のとき、事務局で倒れて、急逝した。母も戦死したのだと思った。戦争がなければ、こんなに早く亡くなることはないと思った。妹はまだ高校生だった。妹だけは守ってやると、決意をした。 必死で仕事を探した。しかし、片親というだけで、働く場のない時代だった。両親のいない尾辻氏を雇ってくれる先はなかった。「何でもしますから」とすがりつく尾辻氏に、返ってきた答えはこうだった。「我が社は慈善事業をしているのではない」。 戦没者の婦人部のお母さんたちが我が子と変わらぬ手助けをしてくれた。尾辻氏と妹が飢え死にをしなかったのは、遺族会があったからだった。青年部の仲間が兄弟同様に励ましてくれた。生きるか死ぬかという時代を、肩を寄せ合って生き抜いた。 そんな半生に触れた「祝辞」の締めくくりは、こうだった。「その頃の話をしますと、長くなります。同じ思いをされた皆さんの前で語る気もありません。一言、誰にも二度と同じ思いをさせてはならないと訴えて、挨拶といたします。令和4年9月12日、参議院議長、尾辻秀久」。 尾辻氏は戦没者遺児だった。胸を打たれた僕は、インターネットで尾辻氏の足跡を調べた。フィリピンやパプアニューギニア、ラバウル、インパールなどの遺骨収集活動に遺族会の一員として参加した経験の持ち主でもあった。戦没者遺骨を本土に帰すために、これほど世界各地で汗を流した政治家を僕はほかに知らない。2012年から2015年にかけて日本遺族会の会長を務めている。なぜそのような人物が、遺骨収集の幕引きについて言及したのだろう。足跡を知れば知るほど、話を聞きたいという思いが強くなっていった。
酒井 聡平(北海道新聞記者)