「永遠の別れと知らず帰りき」大佐が遺書に綴った家族への思い~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#37
今日を除けば「お礼の申上げ様もない感謝の生活」
(井上乙彦の遺書「世紀の遺書」より) 「千鶴子は幸福な家庭に人となり、結婚生活の後半は忍苦の生活でありました。私の力の足らなさと運命の悲しさを今更とやかく言っても仕様がない事です。せめて三人の児を立派に完成する事によって後生の慰めにして下さい。入牢までの二十年は振りかえって見れば夢の様です。苦しかった事も今となっては皆楽しい思い出となって浮んで来ます。然し終戦後は父に逝かれ、母代りの伯母を失い、今また私のこの悲運を諦めよと簡単に言って片付けるには重すぎると思いますが、私達の身に持って生れた業だと思はねばなりますまい。私には今日を除けば、家庭生活はお礼の申上げ様もない感謝の生活でありました。私の足らなかったこと、至らなかった所を今思い出して愧(はじ)入っています」 遺書の中で、ここまで妻に感謝の意を述べて、しかも「足らなかった、至らなかった」と書いた井上大佐は、家庭生活では優しい夫であったのだと思う。 そして井上大佐は、4月6日付けで、最後に藤中松雄ら自分以外に絞首刑となる6人の嘆願書を書いて、筆を置いたー。 (エピソード38に続く) *本エピソードは第37話です。
連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。 筆者:大村由紀子 RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。