「永遠の別れと知らず帰りき」大佐が遺書に綴った家族への思い~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#37
「貴方はどうか生き残ってください」
部下の死刑を覆そうと嘆願を続けてきた井上大佐の死刑執行が決まったのは、1950年4月5日。死刑囚の棟から連れ出される井上大佐との別れを、冬至堅太郎が日記に残していた。冬至堅太郎は福岡の西部軍事件で死刑囚となり、同じ棟にいた。 (冬至堅太郎の日記) <1950年4月5日石垣島事件七人出発> 「今夜誰か引っ張られる様ですよ」別れの挨拶をしながら来たのは、石垣島事件の司令、井上乙彦氏だ I「いろいろとお世話になりました、いよいよ行きます」と丁寧に頭を下げられる。顔はほんのり赤い。 T「石垣島全部ですか?」 I「どうもその様です残念ですが止むを得ません」 T「そうですか、何れゆく先は一緒です待っていてください」 I「いやいや、貴方はどうか生き残ってください」
永遠の別れと知らず・・・
この日の朝、井上大佐には次男が面会に来ていた。スガモプリズンでの初面会だ。1947年1月20日の入所以来、すでに3年2ヶ月が過ぎていた。 “ゆくりなく初面会に来し次男永遠の別れと知らず帰りき 井上乙彦” この歌は、井上大佐の遺書にある。「次男も一人前の立派な男になった姿を見て、すっかり安心しました」と書いている。10日ほど前に、マッカーサーによる最後の審査があり、死刑が確定していた井上大佐は、「今週はあぶない」と感じていたため、次男には「来月の千鶴子の面会は望みない」と伝えていた。 (井上乙彦の遺書「世紀の遺書」より) 「私の魂は天にも浄土にも行きません。愛する千鶴子や○彦や○彦や○子といつも一緒にいるつもりです。今日までは牢獄に繋がれて手も足も出ませんでしたが魂がこの身体から抜け出せば何時でもまた何処へでもすぐ行ってあなた達を助けることが出来ます。助けが入用な時やまた苦しい時はお呼びなさい。何時でも助けになりますから。私は齢五十一歳になって人生五十を過ぎて、命の惜しい時ではありません。また生きていても最早や米食虫に過ぎぬと思う体です。然し愛する妻子が戦犯の汚名で死刑された者の家族であると言う事を考えると可哀想です」 戦犯の家族として白い眼でみられることを心配しながら、自分の死を境に気持ちを切り替え、再出発の覚悟をするようにと書いている。そして、自分のためには、葬式、告別式などの儀式や、墓も不用としている。