巖さんの精神世界に「少しでも近づきたくて」 袴田姉弟を記録し続けたジャーナリストが描く「再審無罪」までの軌跡
袴田巖さん(88)の再審無罪判決が10月9日、確定した。死刑囚という重荷が解かれるまで、半世紀以上の歳月が費やされたこの事件を20年以上にわたって追い続けてきたのが、ジャーナリストの笠井千晶さんだ。 2002年1月、袴田さんの姉、ひで子さん(91)と出会った笠井さんは、袴田さん自身とは面会できない間も、ひで子さんと交流を続けてきた。 再審請求が認められた2014年3月27日、ひで子さんに付き添って東京拘置所に同行した笠井さんはこの日、約48年ぶりに解放された袴田さんの姿を映像に収めている。 以来、二人に寄り添い、400時間以上カメラを回してきた笠井さんが監督・撮影・編集を手がけたドキュメンタリー映画『拳と祈り ―袴田巖の生涯―』が10月19日から公開される。 報道では知り得ない二人の姿を伝える作品がどのようにつくられたのか。これまで袴田姉弟とどんなやりとりをしてきたのか。笠井さんに聞いた。
●「恩返しのつもり」で活動記録をはじめた
――笠井さんは、袴田さんが釈放される10年以上前から、ひで子さんと交流されていたそうですが、きっかけは何だったのでしょうか。 大学で法律を学んだわけではなく、記者になるまで裁判を傍聴したこともなかった私は、静岡放送に入社4年目、記者になって2年目に静岡県警で開かれたレクに参加して、初めて袴田事件を知りました。 配布されたパンフレットには、巖さんが獄中から出した手紙の抜粋が掲載されていたのですが、明日どうなるかわからない状況にいながら、家族を見舞う手紙の内容は、私がイメージする死刑囚とは程遠いものだったんです。 そのとき、巖さんが書いた手紙にどうしても触れてみたくて、ひで子さんに連絡して会いに行ったことから、やりとりが始まりました。
――袴田さんが釈放されるまでの12年間、ひで子さんとはどんなお付き合いをされていたのでしょうか。 お会いした1カ月後、浜松支局に移動になったので「浜松に引っ越します」とお伝えしたら、数日後、ひで子さんが「私が持っている部屋に入らない?」と連絡くださったんです。 最初はお借りしてよいものかと考えましたが、いろいろ見た中でもひで子さんのお部屋はとても居心地よく、場所も便利だったので、お借りすることを決めて。出会って間もなく、大家さんと入居者としてお付き合いが始まりました。 静岡放送時代は報道番組の制作のために取材をしていましたが、退社後、アメリカ留学を経て、名古屋の中京テレビで働き始めて以降は、浜松は放送エリア外なので、仕事でひで子さんを撮影する機会はなくなったんです。そこからは自前の機材を持参して、日常のお付き合いの中でカメラを回し続けました。 ――仕事のための撮影ではなかったのですね。 当時は映画にすることなどまったく考えていませんでしたが、ただ記録は残しておこうと、はっきり思っていました。 私がひで子さんと出会った頃は今と違って世間の関心は低く、支援活動も停滞気味で、事件は忘れられかけていたんです。それでもひで子さんは月に一度、東京拘置所に通い、巖さんに差し入れを続け、人知れず、自分のできることをコツコツ続けていました。 自分にはお金をかけず、真面目に堅実に、慎ましく暮らしているひで子さんのために何かお手伝いしたいと思ったものの、私にできることは限られています。映像を仕事にしている自分にできることは記録を残すことだと思い、恩返しのつもりで、ひで子さんの活動を記録し続けることにしました。