養母と弟を失った『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子。仕送り増額のために移籍オファーを受けたら大騒動に…シヅ子に相談された服部良一が見せた「覚悟」とは
◆やめる時は、ぼくも一緒だ 翌日、シヅ子は麹町に住む松竹創業者・大谷竹次郎の養子で常務、SGDの責任者の大谷博の自宅に呼ばれ「なぜ、東宝と契約したのか?」と叱責された。 シヅ子はそのまま、大谷夫人に付き添われて、神奈川県葉山町の別荘へ。東宝との接触を避けるためである。 この時、シヅ子は26歳になっていたが、OSSKやSGDの劇団内のことしかわからず、戸惑っていた。 そこでシヅ子は、芝区白金町に住んでいた服部良一に電話をかけて「どうしたらいいでしょうか?」と相談した。 服部はしばらく考えて「事を荒立てないように」と言った上で、翌月公演で上演予定の楽曲の譜面を葉山に届けてあげると、まずはシヅ子を落ち着かせた。 「君がいなくては、ぼくも作曲や編曲をする甲斐がなくなるし、松竹楽劇団にいる意味がなくなる。やめる時は一緒にやめるから、ぼくに任せておきなさい」。 「辞める時は一緒に」という覚悟は本音だろう。 服部はその覚悟を持って、松竹トップに話をして、笠置の東宝との契約を撤回しようと奔走した。その甲斐あって、この騒動はひとまず決着をみた。 結局、シヅ子は、23日間、葉山の大谷の別荘で過ごし、翌月の10月から浅草・国際劇場のステージに立っている。
◆引き抜き合戦 この頃、映画界やショウビジネスの世界では、人気スターの引き抜き合戦が繰り返されていた。 松竹映画のトップスター・林長二郎が、1937(昭和12)年に東宝に移籍、長谷川一夫と改名するが、この時は映画スターの生命である林長二郎の顔が、暴漢によって斬られる「顔斬り」事件が起きている。 また、吉本興業の人気ボーイズ・グループ・あきれたぼういずが、新興キネマ演芸部に引き抜かれ、リーダーの川田義雄だけが吉本に残留するという事態が、1939(昭和14)年に起きていた。 そうしたこともあり、松竹は笠置の引き抜きに対して、相当怒った筈だが、服部の配慮もあり、大事には至らなかった。 10月、浅草・国際劇場、渋谷松竹映画劇場での「轟け凱歌──世界の行進曲」(全8曲)から笠置シヅ子がSGDに復帰した。 演出は大町龍夫、作曲・編曲は服部良一、出演メンバー、スタッフともにいつもの布陣だったが、この公演は時局を反映したものとなった。 軍事歌謡「暁に祈る」(作詞・野村俊夫、作曲・古関裕而)が大ヒット中のコロムビアの歌手・伊藤久男の特別出演による「世界の行進曲」をテーマにした勇壮さが売りのショウとなった。
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