松下幸之助の成功の根源にあった独自の死生観 「命をかける」の「命」に対する見方が一般とは異なる
「事業は人なり」と唱えて社員を熱心に育成しながら、事業に対する強烈な使命感を背景に世界的大企業を一代で築き上げた松下幸之助。11月27日に生誕130年を迎え、紀伊國屋ホールで記念シンポジウム「経営で大切なことはみな、松下幸之助が教えてくれた」が開催される。社員全員の天分を生かすことに力を注いだその独自の経営観を、『松下幸之助の死生観 成功の根源を探る』から抜粋し紹介する。 ■妥協を許さず、命をかけるほどの真剣さを求めた
松下幸之助の経営する松下電器の組織は製品別事業部制であり、各事業部は自主独立の精神で経営を進めることとされた(自主責任経営)。そして、トップの事業部長には、大きな権限が与えられる半面、経営の結果責任が求められた。 元社員らの証言によれば、「事業部長は2~3期連続して赤字決算経営の場合は更迭と言われて居りました」「事業部長が2年連続で赤字、営業所長なら1000万円以上の不良債権をそれぞれ出せば解任という厳しさだった」という。
このように、「赤字は罪悪」と述べていた幸之助は、事業部長の経営に対して厳しかった。「企業は社会の公器」であるという幸之助の信念に基づけば、事業によって利益を生まないことは、社会に貢献していないことに等しかったからだ。 かつて炊飯器事業部ではこんなことがあった。同事業部は1958年に電熱器事業部から独立した(炊飯器の生産開始は1950年半ばからしていた)。一事業部として独立させたゆえ、炊飯器に対する会社の期待度は高かったものの、当時、炊飯器の売れ行きは、家電製品のトップメーカーである松下電器としては、芳しくなかった。
幸之助は炊飯器事業部の事業部長を叱咤激励したものの、業績はなかなか好転せず、工場閉鎖を検討する話まで出る。事業部長の頬はすっかりこけ、社内では「自殺でもしかねないのでは」という心配の声まであがっていたという。 同事業部の業績不振はしばらく続いたが、やがて業界初の保温機能を搭載した自動炊飯器を開発する。改良を続けるうち評価が高まり、1960年末までに炊飯器のトップメーカーにのし上がった。幸之助は翌年1月の経営方針発表会で事業部長の努力を称える。