“月光仮面のおじさん”役、大瀬康一も大人気 大部屋俳優からテレビスタアに
放送まであと三週間で決定した主役 変身後のスーツアクターとしても活躍
銀座の電通そばのテーラーの二階にあった宣弘社の分室が、オーディション会場だった。大瀬が出向くと、けっこうな数の応募者がいたという。船床監督、西村プロデューサーとしばらく話をした後、芝の日活アパートに連れて行かれると、そこには原作者の川内康範がいて、大瀬の起用が決まった。そして川内康範の「康」をとって、「大瀬康一」の芸名も生まれた。 そして次には、美術スタッフの小林晋が描いてきたスケッチをもとに、大瀬のサイズを測りながら、サングラス、タイツ、マントをフィッティングしながら、あの月光仮面のイメージを具体化していったわけだが、あまりの異様さに大瀬としては「これでいったい大丈夫なのか」と大変心配だったという。ちなみにこの扮装は、ターバンも帽子にように作ってあって、着脱はけっこう簡単だったというが、タイツが冬は寒く、夏はかなり暑いというやっかいなものだったらしい。 こうして祝十郎=月光仮面も決定し、撮影が開始されたのは、なんと放映まで三週間しかない1958年の1月31日のことであった。初プロデュース、初監督、初主演の若者たちが集う、極貧ながらやる気だけは充満した手探りの現場であった。後のテレビヒーロー物では、変身後はスーツアクターが引き受けるのが定番だったが、この余裕なき『月光仮面』の現場では、大瀬自身が月光仮面に扮することもけっこうあった。おかげで谷中の墓地で月光仮面が高所からカッコよく飛び降りる撮影をしているうちに、大瀬はいきなり左足の複雑骨折に見まわれてしまう。だからといって撮影は遅らすこともできず、ベッドで祝十郎を撮ったり、上半身だけの月光仮面のカットでしのいだり、出だしからてんやわんやの現場であったが、意外やお茶の間の人気は沸騰しつつあった。(つづく) (映画評論家・映画監督:樋口尚文)