結婚して分かった「選択的夫婦別姓」の必要性と男尊女卑が続く日本社会
<自民党総裁選に伴い浮上してきた「選択的夫婦別姓制度」に関する議論。戦前に作られた男性優位の「家制度」が問題の根底にあるが、家制度の基づく"伝統的家族観"は幻想に過ぎず、強制的夫婦同姓にこだわる理由は何もない>
自民党総裁選でさまざまな社会課題が提起されるなか、選択的夫婦別姓制度(以下、夫婦別姓)の是非が再び注目されている。【西谷 格(にしたに・ただす、ライター)】 【データ】都道府県別、高学歴女性の未婚率 私(筆者、男性)もしばらく前に婚姻届を提出した際、この問題に直面した。配偶者と話し合うなかで痛感したのは、日本の婚姻制度が事実上「女性に対する差別」を温存するものとして機能していることだ。男尊女卑的な価値観を助長しているとも言える。 私の配偶者が口にしていたのは、多くの夫婦別姓論者と同じく「もとの苗字への愛着」、「手続の煩雑さ」、「女性が変えるのが当然という風潮への違和感」といったものだった。当初、私は漠然と「女性のほうが変えるものかな」と思っていたので、困惑した。 だが、相手の立場になって考えてみれば、どれも至極もっともなことと言える。苗字を変えたくないと望む女性を「わがままだ」と感じる人には、是非試して欲しいことがある。自分の氏名の苗字部分を誰かの適当なものに入れ替えて、ボールペンで白い紙に一度書いてみて欲しい。 想像で済ませるのではなく、実際に紙に書いた時に自分がどう感じるか、試して頂きたい。小林鷹之さんであれば「岸田鷹之」、高市早苗さんであれば「小泉早苗」などと、苗字を変えて紙に書いてみるのだ。 違和感を覚える人が、ほとんどではないだろうか。 もちろん、結婚相手の苗字に変更できて嬉しいと感じる人はいるだろうし、そういう人は今後もそう選択すれば良い。でも、違和感を感じる人に対して「苗字を変えないなら結婚させない」という現在の制度は、あまりに理不尽ではないだろうか。 ■「伝統的家族観」でなく「戦前的家族観」 近年の調査では、婚姻届を提出した夫婦のうち約95%が「夫の苗字」を選択している。理由の一つとして考えられるのが、明治期に作られた「家制度」の価値観が今なお社会に残っていることだろう。家制度は家長となる年長の男性(祖父、父など)が家庭内で強い権限を持つ制度で、家長と家族の関係を天皇と国民の関係になぞらえることで、天皇制を支える役割があった。 「結婚したら女性は苗字を変えるべき。結婚とはそういうもの」と感じている人は決して少なくない。だが、「そういうもの」と決められたのは明治末期の1898年のことであり、決して日本の伝統とは言えない。「伝統的家族観」という言葉は歴史的に見て不正確であり、「戦前的家族観」と言い換えたほうが良いだろう。 日本では1870年に平民苗字許可令が出て一般庶民の苗字使用が許可されようになると、1875年には苗字必称義務令が布告され、すべての人が苗字を使うになった。結婚後の苗字については1876年、妻は「実家の苗字」を名乗るよう決められた。明治維新までは公家や武家などの女性が結婚した場合、生まれた家(つまり実家)の苗字を使い続けるのが普通だったからだ。 その後、1898年に制定された民法で「家制度」が確立し、「妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」と定められ、結婚後は夫の苗字を名乗ることが法的に定められた。1945年の終戦から2年後に民法は改定され、家制度は廃止となり、現在に至る。 こうして見ると、結婚後に女性が苗字を変えるという法制度は、戦前のわずか50年程度しか続いていなかったことが分かる。 ■夫婦別姓反対派の人々の「本音」 夫婦別姓に反対している人々は、「家族の絆が弱まる」「夫婦の一体感が失われる」「子どもがかわいそう」といった理由を述べているが、すでに多くの人が指摘している通り、どれも根拠なき思い込みと言える。特に「子どもがかわいそう」に至っては、偏見や独断を含んでいると言っていい。 にもかかわらず、夫婦別姓に頑なに反対するのは、彼らがそもそも、「両性の本質的平等」という価値観を受け入れていないからではないだろうか。要は、男女平等がイヤなのだ。 そんなバカなと思うかもしれないが、SNSをのぞいて見れば、日本にはまだまだ「誰か差別をしたい人たち」が山ほどいることがよく分かる。自分に誇れるものが何一つない時、人は容易に差別に走る。そういう人たちから見れば、差別是正策である夫婦別姓には、反感を覚えるのだろう。無論、反対派の人々全員が差別主義者とは思わないが、そういう層を多分に含んでいるのは間違いないだろう。 反対派の人々が「家族の絆が失われる」と語るとき、彼らの頭のなかにある「家族」とは、戦前の約50年間だけ続いた「家制度」に基づく家族像である。だが、それは1945年の敗戦によってすでに瓦解している。残っているのは、GHQが手をつけそびれた家制度の残滓ともいうべき強制的夫婦同姓である。 夫婦別姓反対派の人々の本音は、きっと次のようなものではないだろうか。 「女性が働いて社会に出る必要などありません。男性は外で働き、女性は家を守って夫を助ける。これが日本の正しい家族の姿です。女性は結婚したら、相手の家に入るもの。だからこそ、妻は夫の苗字を名乗るのです。男性には男性の役割、女性には女性の役割がある。これは差別ではなく区別です。欧米から押し付けられている『男女平等』、『ジェンダー平等』といった価値観は、日本社会には合いません。私たちは、できることなら戦前の家制度を復活させたい。家制度に真っ向から反する夫婦別姓には、反対です」 むしろ、こう正直に言ってくれたほうがよほど分かりやすい。それなら、一種の復古主義的な価値観として筋が通っており、理解できなくはない(賛成はしないが)。 ■日本も家族も「崩壊しない」 現代の尺度で見れば女性差別的な要素が強い「家制度」も、日本が近代化を成し遂げた直後の一定期間は、天皇の権威を高め、社会秩序を安定させる上で必要だったのかもしれない。だが、終戦から80年近く経った今、戦前の差別的な社会制度に固執する理由はどこにもない。 明治時代と異なり、現在は象徴天皇制が日本全体で広く支持されており、夫婦別姓を解禁したからといって、天皇の権威が揺らぐことはあり得ない。反対派の人々が懸念している「日本が崩壊する」、「家族が崩壊する」といった言説は観念論に終始している。 戸籍制度が崩壊すると言っている人もいるが、それも杞憂だろう。夫婦別姓の場合は戸籍簿にそれぞれフルネームを記載すれば良いだけのことであり、戸籍制度は従来通り正常に機能する。 また、反対派の人々は通称使用の拡大を目指すというが、1人の人間が2つの名前を使い分けるのは、むしろ社会の混乱を生むのではないか。在日コリアンのように歴史的背景や合理的理由があればある程度やむを得ないが、一般的な多くの国民を対象に「結婚すれば名前を複数持てる制度」を作るのは、本名の意義を危うくさせる。 2つの名前の使い分けが国際社会で通用するはずもなく、ビザ取得など多くの場面で不具合が残り、日本はますます「遅れた国」になっていくだろう。不毛な議論に莫大な時間と金銭的コストを費やしながら日本はさらに衰退し、誇りを持てない国になっていく。 ところで、私の場合はいったんは妻の姓に統一しようと考えたが、私の父親が反対したため妻に折れてもらい、世の中の約95%の人々と同じパターンにいったんは落ち着いた。だが、どうも釈然としないまま結婚生活を続けている。夫婦同姓が良いと思う人は同姓を使い、別姓が良いと思う人は別姓を使える世の中に、早く変わって欲しいものである。
西谷 格(にしたに・ただす、ライター)