葛飾北斎と娘・応為の人物像に迫る “血のつながらない親子”という設定で描かれた時代小説(レビュー)
2025年放送予定のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で注目されている江戸の町人文化。浮世絵や江戸料理に関する多数の著作、ベストセラーとなったエンタメ小説『蔦重の教え』で知られる車浮代氏の最新書下ろし時代小説『気散じ北斎』が実業之日本社より刊行された。希代の絵師・葛飾北斎と、近年高い評価を受ける娘・葛飾応為親子の奇妙な絆を描いた本作の魅力を文芸評論家の菊池仁氏が解説する。 *** 確信していることがある。作家は書き出しの文章に神経を使う。それだけに書き出しが面白いかどうかが、作品の成否を決めるといっても過言ではない。その点で本書は間違いなく傑作との邂逅を期待させる。 作者は葛飾北斎の生涯を描くにあたって、数え三十六歳の北斎と継娘となる六歳のお栄(後の応為)との出会いの場面から筆を起こしている。この出会いこそ車浮代版北斎像の底流を象徴するもので、それを裏付ける格好のエピソードを用意している。お栄が初めて筆を使って描いた絵の稽古の筆使いを目にした時に、「――こいつは……とんでもねえや! 恐るべき天分を秘めた娘――。」と北斎が感嘆する場面である。北斎はそこに初めて筆を持った六歳時の自分を重ね合わせていたのだ。物語は六歳の北斎に戻り、絵画修業の遍歴のスタートとなる貸本屋に奉公するまでのエピソードへと続く。その後も、章の冒頭でお栄との交情の密度を描くことに費やし、物語を引っ張る太い動線となっている。
作者は、大阪芸術大学デザイン科を卒業、浮世絵と江戸食文化に造詣の深い評論家としても活躍している。本書は、そんな作者が浮世絵研究の成果を踏まえた独自の見解と人物解釈を起爆剤として、北斎と応為の新たな人物像に迫るというモチーフで取り組んだ作品である。その意欲がこの巧みな構成で表現されており、第一の読みどころとなっている。 第二の読みどころは、北斎と応為の特異な親子関係に照準を合わせたことである。北斎と応為を描いた先行作品は杉浦日向子『百日紅』、朝井まかて『眩』など数多くあるだけに、差別化をどう図るかがポイントだ。 そこで作者が工夫を凝らしたのが、北斎とお栄の出生に絡めたある驚愕のエピソード、そして北斎と応為の親子関係の変化の内実を克明に描くことであった。例えば第二章で作者は、お栄が実父から暴力を振るわれた経緯を綴っている。その事実を知った北斎は憤り、「俺は一生を賭けてお前を守ってやる」と言う。その日から北斎はお栄の全てとなった。つまり、北斎とお栄は血のつながらない親子という設定なのだ。本書の二人の特異と見える親子関係のコアとなっている。 第四章では、十九歳となった応為が北斎と共に画業に専念し、ずば抜けた才能を発揮する姿が登場する。北斎は、お栄の描く絵は、いくつもの流派を渡り歩き修業してきた自分と違い、本物の天才と確信している。しかし、お栄は絵を描くこと以外の生活全般には全く関心を示さない。北斎は将来を慮り葛飾応為という雅号を与え、嫁に出すが、作者の狙いは応為の絵師としての業がどんなもので、どこへ行こうとしているかを暗示するところにある。この受けがラストの北斎死後の応為を描いた第六章となる。