ヤマハvsカワイ「仁義なきガチバトル」の歴史...浜松発の二大ピアノメーカーはいかに競い、世界的企業になったのか
ピアノの大量生産開始と「ヤマハ音楽教室」の戦略
戦後の日本は急速な経済成長を遂げたが、そこには生活の西洋化も伴った。食や被服の西洋化が進展し、ピアノも日本人の日常の中に浸透していった。とりわけ少女が習いたい、そして親が娘に習わせたい楽器として憧れの対象となった。 しかしピアノが庶民にアクセス可能な物品となるためには、製品価格の高さとレッスン料の高さという2つの「壁」を乗り越える必要があった。 1950年代後半、ヤマハはいよいよピアノの大量生産に着手した。驚くべきことに、このときモデルとされたのは、缶詰工場や自動車工場であった。要するにベルトコンベア生産を核とする、大量生産システムである。 他方でJIS規格に適合的な生産を行うなど、「質」の改善にも尽力、あくまで「工業製品」としてのピアノ、という観点から低コスト・高品質の生産を実現した。 こうしてヤマハは、欧米のピアノメーカーが成し遂げなかった「質」と「量」の両立に成功し、海外市場の獲得にもつなげていった。 加えて同時期、ヤマハは「ヤマハ音楽教室」を開設、特約店を通して全国に展開した。その特色は集団指導による低価格のレッスン料と、「ヤマハ・メソード」に基づくレッスン標準化である。つまりヤマハは音楽教育の「大量生産」と「標準化」も実現した。 生徒の多くは楽器を習い始めた子どもであったため、音楽教室の存在はピアノの販路確保にも貢献した。このようにして大量生産と顧客囲い込みの双方を成功させたヤマハは、他の追随を許さない世界的ピアノメーカーの座へと登りつめていくのであった。
カワイの巻返しと「原器工程」
さて、躍進するヤマハを前に、カワイはいかにして巻返しを図ったのだろうか?戦後の会社再建に出遅れ、販売網と知名度の劣位に悩むカワイの社長に、他業種の営業マンが囁いた。 「競合に勝ちたかったら、人より先に売ればよい」 この言葉をヒントとしてカワイが編み出したのが、1960年に開始した「予約販売」である。いつか子どもにピアノを習わせたいと願う親から契約を取り、毎月少額の積立金を支払わせ、満期にピアノを渡すという販売方式である。 通常の分割払いよりも月々の負担が軽かった「予約販売」は多くの親の心を捉え、カワイは巻返しに一定の成功を収めた。同時期に大量生産システムも導入、地歩を固めながら、海外市場へも進出していった。 この他、カワイの特徴的な点としては、大量生産システムとは相容れないはずのクラフト的工程を取り入れた点である。これは「原器工程」と呼ばれ、職人が良質なピアノづくりを目指し、試行を重ねる実験的工程である。 この工程があればこそ、カワイのコンサートグランドピアノが「ダミ声で周囲を圧する田舎娘」から、「なんとも典雅で独創的な美しい響きをかもしだす」(中村紘子『どこか古典派』)ピアノへと変貌を遂げたのだろう。 もっともハイエンド機種の開発に傾けた情熱という点では、ヤマハも負けてはいない。60年代半ばに巨匠、ミケランジェリお抱えの調律師に協力を要請、本格的な開発に着手する。 そして「貧血気味」と評されたヤマハのピアノは、やがて「どんな力演にもつぶれない透明感と輝かしい強さを獲得」(同書)し、内外のピアニストの信頼を得ることになる。今ではヤマハのピアノもカワイのピアノも、国際コンクールの「常連」だ。