大阪の戌年回顧 大阪万博開催 関空・ATCが完成
1970年:大阪万博に6400万人が入場
1970年(昭和45)は日本初の国際博覧会「大阪万博」が開かれ、大阪が歴史的な盛り上がりをみせた1年だった。テーマは「人類の進歩と調和」。会期は3月15日から9月13日までの183日間で、入場者は6400万人に達した。さながら民族大移動。大阪の宿泊施設はどこも万博目当ての観光客で満杯。北陸の高校生だった筆者は、当時大阪市内の大手製薬会社に勤めていたいとこに頼み込み、友人らと3人で、いとこの独身寮に押しかけて寝る場所を確保。悲願の万博見学に成功した。 万博のシンボルである太陽の塔に、月の石や人間洗濯機。主だったパビリオンは並んで入館したはずだが、なさけないことに肝心の見学の記憶はほとんど残っていない。大阪をカオス状態の大都市に感じたことが鮮烈な印象だった。「俺もなにごとかをなさなければ」という熱い思いに駆り立てられたものだった。 数年前、日本的経営の特色のひとつである制服文化を分析するため、大阪のユニホーム製造会社を取材した。大阪万博のコンパニオンが着こなしたカラフルな制服が契機となり、洗練された制服を発注する企業が相次いだという。汚れを隠し個性を消す実質本位の地味な制服から、企業イメージを高めスタッフも着て楽しいユニホームへ。「制服革命」だ。大阪万博が日本人のユニホームへの愛着を高め、海外でも評判のいい現在のコスプレ文化にもつながっているといえそうだ。クールジャパンの原点は大阪万博だったかもしれない。 7月、四條畷市と泉南市誕生。10月、国勢調査で府の人口が762万人、うち大阪市が298万人だった。
1982年:PL学園が春の選抜大会で2連覇
1982年(昭和57)3月、大阪場所は横綱千代の富士が4度目の優勝を飾る。北の湖、隆の里、琴風などがライバルだった。4月、高校野球春の選抜大会で、大阪のPL学園が2連覇の快挙を達成した。 同月、長期的視点で関西再生を目指す大阪21世紀協会が発足。行政や企業から協会へ出向で派遣されてきた人材たちが交流しながら文化芸術事業に慣れていくうちに、近い将来官民連携のプロジェクトを推進するネットワークを築ける利点があった。業種や職種のジャンルを超えた異業種交流会も盛んになっていく。東京一極集中のうねりに抗して関西の復権に本気に取り組むなら、「オール大阪、オール関西で」という機運が高まった。30年あまりの歳月を重ねて、オール関西はいまだ道半ばだろうか。 8月、府公害対策審議会が府下からカラカケ騒音を追放するため、午後11時以降、防音装置を備えていない飲食店ではカラカケの使用を原則的に禁止するカラカケ規制措置を決め、知事に答申した。 プロ野球ではセ・リーグは中日が優勝し、阪神は3位に終わる。掛布がホームラン王と打点王の二冠王に輝き、打率でも3位と絶好調だった。パ・リーグの覇者は広岡西武で、日本シリーズも制した。近鉄の大石が新人王、阪急の福本が13度目の盗塁王に。11月、安宅コレクションを収蔵する市立東洋陶磁美術館が開館した。