【光る君へ】彰子は87歳まで生きた 道長の周囲で長生きした人に見つかる共通点
平安時代の平均寿命は40歳前後
平安時代の平均寿命には諸説あるが、長い説でも男性50歳、女性40歳程度で、全体に40歳前後ではないかといわれることが多い。NHK大河ドラマ「光る君へ」でも、たとえば藤原道長(柄本佑)の姉で一条天皇(塩野瑛久)の母、詮子(吉田羊)の「四十の儀」の模様が描かれた。40歳まで無事に生きることが決して多くなかったから、それを祝う儀式があったのである。 【画像】“大河”劇中とはイメージが変わる? 「彰子」を演じた見上愛
第43回「輝きののちに」(11月10日放送)で、道長が三条天皇(木村達成)に、執拗なまでに譲位を迫った理由も、当時の寿命と切り離せない。ドラマで描かれた長和4年(1015)に、道長はすでに数え50歳だった。40歳を過ぎれば老年といわれたこの時代、病気がちで、飲水病(糖尿病)の持病もかかえる道長には、なんとしても自分の目の黒いうちに、長女の彰子(見上愛)が産んだ東宮、敦成親王(石塚錬)を即位させたい、と焦る気持ちがあったと思われる。 その道長は万寿4年(1027)12月4日、62歳で死去した。糖尿病が原因で敗血症になり、最後は多臓器不全に陥ったと考えられている。じつは、その何年も前から体はボロボロだったようで、寛仁2年(1018)10月、かの有名な「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば」という歌を詠んだころには、道長は目がよく見えていなかった。藤原実資(秋山竜次)の日記『小右記』にも、道長が実資に「近くはつまり、汝(実資)の顔も特に見えない」(倉本一宏訳)と嘆いた旨が記されている。 そうはいっても、この時代に還暦を迎えることができたのだから、まずまずの長生きだった。
90歳まで生きた道長の正妻、倫子
だが、道長よりも圧倒的に長生きだったのは、2人の妻だった。まず、正妻の源倫子(黒木華)。彼女は康保元年(964)の生まれで、康保3年(966)生まれの道長より2歳年長だった。道長とのあいだに2男4女を産み、末っ子の嬉子を産んだ寛弘4年(1007)には44歳だった。高齢出産を無事にこなせるほど健康で、体力があったということだろう。 寛弘5年(1008)には、正二位の道長を超えて従二位に叙され、外孫の敦成親王が後一条天皇として即位した長和5年(1016)には、太皇太后、皇太后、皇后の三后に準じる准三后になった。道長の死去後も、彰子を除く娘3人に先立たれながら生きながらえ、長暦3年(1039)には76歳で出家。亡くなったのは天喜元年(1053)、孫であり曾孫である後冷泉天皇(孫の後朱雀天皇と四女の嬉子のあいだに生まれたため)の代で、享年は90だった。 次妻で4男2女を産んだ源明子(瀧内公美)も長命だった。倫子が宇多天皇の孫、源雅信(益岡徹)の娘だったのに対し、1歳年下の明子は醍醐天皇の皇子、源高明の娘。血筋だけなら明子のほうが天皇に近かった。道長の日記『御堂関白記』には、倫子にくらべると明子への言及が少なく、道長の死後はほとんど記録がないが、永承4年(1049)に85歳で死去したことはわかっている。 また、長男(道長の次男)の頼宗(上村海成)は73歳、三男(道長の四男)の能信は71歳、次女の尊子(道長の五女)は85歳まで生きているので、長寿の遺伝子をもっていたのかもしれない。