【光る君へ】彰子は87歳まで生きた 道長の周囲で長生きした人に見つかる共通点
87歳まで生きた道長の長女、彰子
だが、倫子が産んだ子たちのほうが、いっそう長生きである。長男の頼通(渡邊圭祐)は83歳、次男(道長の五男)の教通(姫子松柾)は80歳。次女の妍子(倉沢杏菜)、三女の威子(佐月絵美)、四女の嬉子(太田結乃)は必ずしも長生きではなかったが、長女の彰子は87歳まで生きた。 感染症が蔓延するたびに、巷でも宮中でもバタバタと人が死んでいった時代に、母親が90歳まで生き、6人の子のうちの3人が80代まで生きたというのは、驚異的である。なかでも、長生きしたがゆえに、後々まで強い影響力を持ち続けたのは彰子だった。 長保元年(999)11月、一条天皇のもとに入内したのは数えでわずか12歳のときで、翌年、中宮になった。そして入内から9年後、敦成親王を出産、翌年には敦良親王を産んだが、寛弘8年(1011)、一条天皇は発病して譲位し、間もなく亡くなった。それまでも一条天皇の病の記録はあったが、彰子の体調不良の記録はほとんどない。生来、健康だったのかもしれない。 長和元年(1012)には皇太后となり、長和5年(1016)に敦成親王が即位すると(後一条天皇)、国母として人事等にも積極的に口を出した。寛仁2年(1018)には太皇太后となり、その翌年、道長が出家してからは、天皇家のトップとして政務を後見し、また藤原一門を統率して摂関政治を支えた。
驚くべき健康長寿による父権の代行
万寿4年(1027)12月には父の道長が没したが、その前年、彰子は出家していた。妹の嬉子や異母妹の寛子が亡くなるなどして、世の無常を思い知り、出家を急いだという。 しかし、彰子は女院(上東門院)となっても、多くの殿上人を出入りさせ、権威を維持し続けた。道長の没後、彰子は天皇家と摂関家の家長として、病弱な後一条天皇、優柔不断な摂関であった弟の頼通を後見し、実質的に国政を支えたのである。 だが、彰子本人は健康でも、周囲はそうはいかなかった。長元9年(1036)4月には後一条天皇(敦成)、寛徳2年(1045)正月には後朱雀天皇(敦良)と、10年足らずのあいだに息子を2人とも失ったのは、痛恨の極みだったのではないだろうか。 その後は、息子の後朱雀と妹の嬉子のあいだに産まれた孫であり甥でもあり、嬉子亡きあとは彰子が大切に育ててきた後冷泉天皇が21歳で即位。実質的な国母として影響力を行使し続けた。死去した承保元年(1074)10月は、すでに曾孫の白河天皇の代で、享年87。自身が支え続けた頼通の死去から8カ月後のことだった。驚くべき健康長寿によって父権を代行し続けた歳月は、近親者に次々と先立たれる、つらい日々でもあったことだろう。