<春の涙、いま・私のセンバツ>/2 悪送球、指導の根に 1995年出場 育英 藤本敦士さん
1995年春の第67回センバツ。2回戦に臨んだ育英(兵庫)は九回表に前橋工(群馬)に追いついた。その裏、遊撃手の一塁悪送球でサヨナラ負け。グラウンドにうずくまった遊撃手は、のちにプロ野球・阪神などで活躍する藤本敦士さん(45)だ。 このセンバツは高校球児が社会と向き合った大会だった。開幕の2カ月あまり前の1月17日に阪神大震災があり、死者6434人を出した。藤本さんの兵庫県明石市の自宅マンションは水道もガスも止まり、父親が切り盛りする居酒屋に残る食料を近所の人と分け合った。野球の練習は自宅近くでキャッチボールや素振りぐらいしかできない日々だったが、それすら肩身が狭かったという。 甲子園周辺が被災地となる事態に大会本部は「開催か、中止か」の判断を迫られたが、2月17日の臨時運営委員会で開催を決定。地元・兵庫から育英、神港学園、報徳学園の3校が選ばれた。育英の主将だった藤本さんは「野球をやっていていいのか」と複雑だったが、開幕2日前の3月23日の毎日新聞には「出場するからには目いっぱい戦う。練習不足のハンディを乗り越え、優勝を狙う」との決意表明が載っている。 初戦で創価(東京)に勝つと、被害の大きかった神戸市長田区にある育英の体育館に避難する被災者が喜んでいるのをテレビで見た。「喜んでくれる人がいた」と救われる思いがした。 そして3月31日、前橋工戦の九回裏2死二塁。三遊間寄りに来た打球は平凡だった。捕って一塁に投げた瞬間、「あっ」。打者走者を目で追う余裕があったゆえに気が緩んだ。送球は大きくそれ、二塁走者が生還。春が終わった。 以来、キャッチボールを大切にするようになった。単なる肩慣らしではない。この一球が正確に相手に届かないと、どんな結果を招くか。「一番の大舞台でエラー。結構こたえたが、もう過去のこと」と、今は吹っ切れている。 今年2月、沖縄県の阪神キャンプ。正遊撃手の座を狙う小幡竜平選手らにノックをする藤本さんの姿があった。1軍内野守備走塁コーチとして「守りの野球」を掲げるチームの要職を担う。厳しいプロの世界で生き残りを懸ける選手たちには「野球ってアウトを取って完結しないと終わらない。完結するまで絶対に気を抜くな」と伝えている。 指導の根っこに、自らのあの日の失策がある。【荻野公一】=つづく