「独裁者が独裁者と呼んだ日」読売グループ“ドン“である“ナベツネ”さんの死去をヴェルディを巡る問題でバトルを繰り返したJリーグ初代チェアマン川淵三郎氏が追悼
ホームタウンに関しても、当初は東京都を希望していた。しかし、当時の都内にはJリーグ基準を満たすスタジアムが国立競技場と駒沢陸上競技場の2つしかなく、前者はJリーグが「中立地」として扱ったために、後者は病院が近接している関係で騒音やナイター照明が望ましくないという理由で断念せざるをえなかった。 最終的には前身の日本リーグ時代から何度か使用していた、隣接する神奈川県川崎市をホームタウンに、等々力陸上競技場をホームスタジアムとして1993年のJリーグ元年を迎えた。しかし、カズ(三浦知良)やラモス瑠偉らを擁するスター軍団が、第2ステージのニコスステージ制覇を目前に控えた同年12月に大騒動が巻き起こる。 米軍調布基地跡地に新スタジアム構想が浮上し、調布市側がヴェルディと東京ガス(現FC東京)を誘致する活動を展開していた最中の12月3日に、渡邉さんが読売新聞社社長として東京都移転構想を半ば強引に発表した。 しかし、新スタジアム完成までの行程が不透明で、等々力陸上競技場の改修に着手していた川崎市が反発する状況を受けたJリーグが、地域密着の基本理念を全面的に否定するものとして拒絶。JFA理事会もヴェルディの移転計画の撤回を要望したなかで、各クラブの社長らで構成されるJリーグ実行委員会が同14日に東京移転構想の白紙撤回を勧告。ヴェルディ側も了承し、移転構想はいったん立ち消えとなった。 こうした経緯が引き金となったのか。ヴェルディがリーグ戦連覇を達成した1994年12月。都内のホテルで開催された祝賀会で、乾杯のあいさつに立った渡邉さんが、さまざまな形で意見を対立させてきた川淵氏を、皮肉を込めて「独裁者」と呼んだ。 「企業サポーターがスポーツを育てる。一人の独裁者が空疎で抽象的な理念を掲げるだけではスポーツは育たない」 祝賀会を欠席していた川淵氏が「独裁者に独裁者と呼ばれて光栄です」と返すなど、真っ向から対立する構図は、その後もメディアを何度もにぎわせた。そのなかで群を抜く発言力を誇る渡邉さんとの、メディアを介した論争がもたらした絶大なプラス効果があったと、川淵氏は追悼メッセージのなかで綴っている。