イチローは異例引退会見で何を語ったか(2)「大谷は隔年で投手、打者をしてサイヤング賞と本塁打王を狙え」
イチローが21日の深夜に1時間23分にわたって行った異例の引退会見の質疑応答の第2部。 ――イチロー選手の生き様でファンに伝わっていたら嬉しいということはあるか? 「生き様はよくわからないが、生き方と考えれば、人より頑張ることはとてもできない。あくまでも、秤は自分のなかにある。それで自分なりに秤を使いながら、自分の限界を見ながら、ちょっと超えていくということを繰り返していく。そうすると、こんな自分になっているんだという状態になる。自分の限界を知りながら、少しずつの積み重ねでしか今の自分を超えていけない。一気に高みにいこうとすると、今の自分の状態とのギャップがありすぎて続けられない。地道に進むしかない。進むだけでなく後退しながら、あるときは後退の時期しかないが、自分がやると決めたことを信じてやっていく。でも、それが正解だとは限らない。間違ったことを続けていることもある。遠回りすることでしか、本当の自分に出会えない。今日のゲーム後のファンの気持ちを見たときに、自分なりに重ねてきたことを見ていただいていたのか、と嬉しかった。そうでなくても嬉しかったのだが」 ――これまでも引退に悩んだ時期はあったか? 「ニューヨークに行ってからはクビになるんじゃないか、という思いがいつもあった。毎日そんな感じ。マイアミもそう。ニューヨークは特殊な場所。マイアミも違った意味で特殊な場所。だから毎日、特殊なメンタリティで過ごしていた。クビになるときが、まさにそういうとき(引退)だろうと」 ――今回引退を決意した理由は? 「マリナーズ以外にいく気持ちはなかった、ということは大きい」 ――菊池選手が泣いていた。 「号泣中の号泣。ビックリした。それみてこっちは笑けたけどね。話? 雄星が伝えるのは構わないが、それを僕が話すのはバカです。そんな人間は信頼されない。それはダメ」 ――アメリカのファンへのメッセージはあるか? 「アメリカのファンの方々は最初は厳しかった。2001年のキャンプは日本へ帰れとしょっちゅう言われた。結果を残した後は、手のひらを返すという言い方もできるが、行動で示したときの敬意の示し方には迫力あるなあという印象。なかなか入れてもらえないが、入れてもらった後、認めてもらった後はすごく近くなる。僕の勝手な印象だが、シアトルのファンとは、それができた。ニューヨークは厳しいところ。でもやれば、どこよりも、どのエリアの人よりも熱い。マイアミはラテン文化が強い。圧はそれほどないが、結果を残さないと人はきてくれない。それぞれの場所で関係を築けたと思う。こういうファンの人達の特徴を見るだけでアメリカは広いなあという印象。最後にシアトルのユニホームをきて、セーフィコフィールドではなくなってしまったが、姿をお見せできなくて申し訳ないという思いがある」 ――支えてくれた弓子夫人ら家族への思いは? 「頑張ってくれました。一番頑張ってくれた。僕は、ホームのときは妻が作ってくれたおにぎりを持っていくわけだが、その数が2800くらいだった。僕はアメリカで3089のヒットを打ったが、妻は3000個までいきたかったみたい。3000個握らせてあげたかったと。僕は、ゆっくりするつもりはないが、妻にはゆっくりしてもらいたい。 それと一弓。我が家の愛犬、柴犬なんですが、17歳と7か月。今年で18歳になろうかという柴犬。さすがにおじいちゃんになってきて、毎日ふらふらだが、懸命に生きている。その姿を見ていたら、“オレも頑張らないと”とジョークじゃなく本当に思った。2001年生まれ、2002年に我が家にきたが、まさか現役を終えるまで一緒に過ごせるとは思ってもみなかったので、大変感慨深い。妻と一弓には、もう感謝の思いしかない」 ――引退を決めた今季。打席内での感覚の変化があったのか? 「いるそれ? ここで? 裏で話しよ。後で(笑)」 ――野球人生に決断の場面は何度かあった。一番の決断は? 「順番はつけられない。それぞれが一番。アメリカでプレーするために今と違う形のポスティングシステムだったが、自分の思いだけでは、叶わないので、当然、球団からの了承がないといけなかった。そのときに誰をこちら側(につけるか)……敵味方みたいでおかしいが、球団にいる誰かを口説かないといけなかった。そのときに一番に浮かんだのが仰木監督。何年か前からアメリカでプレーしたい思いを伝えていたこともあったが、仰木監督なら、おいしいごはんと、お酒を飲ませたら……飲ませたらとあえてと言っているが、まんまと(はまった)。口説く相手に仰木監督を選んだのは大きかった。(当初は)ダメだ、ダメだと仰っていたのに、お酒でこんなに変わるのか、と、お酒の力をまざまざと見た。(監督は)洒落た人だった。仰木監督から学んだものははかりしれない」