芥川賞にノミネートされず、鬱っぽくなっていた時期にChatGPTを利用 九段理江が語った生成AIとの向き合い方(レビュー)
建築家のザハ・ハディド氏による国立競技場が完成したパラレルワールドを舞台に描かれた小説『東京都同情塔』(新潮社)で、芥川賞を受賞した九段理江さん。 受賞会見で「全体の5%くらい生成AIの文章を使っている」という発言が話題を呼んだ本作について、作者の九段さんがChatGPTを利用した意図や編集者との対話の大切さを語った談話を紹介する。
九段理江『東京都同情塔』芥川賞受賞記念談話「二人の編集者」
私が最初にChatGPTに投げかけた質問はこんなものでした。「毎日が退屈です。レジリエンス(回復力)を高めるにはどうすればよいですか?」。前作「しをかくうま」が芥川賞にノミネートされず、鬱っぽくなっていた時期のことです。 同じ頃、新潮社の編集者に声をかけられ、食事をすることになりました。文学や建築の話で盛り上がり、その編集者が口にした「アンビルト」という概念にも関心を持ちました。それは楽しい、充実した時間でした。 ところが食事を終え駅に着くや否や、編集者は「原稿、どうかよろしくお願いします。今日はそれだけ言いに来ました」と言い残し、くるりと背を向けて去って行きました。それだけ言いに来ました……では、この楽しい食事の時間は何だったのだろう。この言葉をどのように受け止めれば良いのだろう……。私は再びChatGPTに問いかけました。「『それだけ言いに来ました』この言葉から、どういった印象を受けますか」。すると彼は「熱意や緊迫性を感じます」と。そうか、あの急に表情を変えた編集者には熱意があるのか。では、ぜひ作品を書いてお渡ししたい、と思いました(笑)。それから一晩で構想したのが『東京都同情塔』です。 私は彼に、三つ目の質問を投げかけました。「刑務所を現代的な価値観でアップデートしたいです。どのような名称が考えられますか」。回答は、「リハビリテーションセンター」「ポジティブリカバリーセンター」「セカンドチャンスセンター」。彼が示す模範回答がカタカナであること、外来語であることに強い違和感を覚えました。生成AIを小説に登場させるのはアリかもしれない、とこの時に思いついたんです。 AIの回答そのものではなく、回答がカタカナであることに目をつけたのが私らしい、とたびたび指摘されますが、それは確かに、人間的な着眼点かもしれません。回答をメタ的に見た、というところが。 私は以前から、それまで普通に通用してきた日本語が、発する負担がより少ないだとか、短くて言いやすいだとかいう理由で、外国語に変換され浸透していく現象が気にかかっていました。なぜ、「合意」が「コンセンサス」にすり替わるのでしょうか(笑)。私も「動機」を「モチベーション」、「比喩」を「メタファー」と表現することに、しっくりきているところがあります。だから全てを日本語に戻すという極端なやり方は同意できないけれども、本作の主人公が悩んでいる通り、「ジェンダーレス」という言葉を使って、いったい何が解消されるのか……。特に人の体、アイデンティティ、生き方に関係する言葉には、センシティブにならなければいけないですよね――と言いながら私もやはりカタカナを多用しています。