ドラフト調査書1球団のみ→当日の記者0からパ盗塁王へ 「野球小僧」の小記事から開いた未来への扉…元楽天外野手・聖沢諒さんが著書出版
楽天の外野手として2012年に盗塁王に輝き、13年には初の日本一に貢献した聖沢諒さん(39)=楽天イーグルスアカデミーコーチ=が、このほど初の著書「弱小チーム出身の僕がプロ野球で活躍できた理由」(辰巳出版・税込み1870円)を出版した。創意工夫と努力で運と縁を呼び込んだ、自らの野球生活を振り返った一冊だ。216ページに込めた思いを聞いた。(構成・加藤 弘士) 【写真】勝負強い打撃も魅力だった現役時代の聖沢さん **** プロ野球選手になるための“最短距離”があるとすれば…。中学から硬式でプレーし、強豪校へ進学する。激しい競争に勝ち抜いて頭角を現し、あわよくば甲子園に出場。活躍が多くのスカウトの目に留まれば、ドラフト指名を勝ち取る可能性は高くなる。だが、聖沢さんはそのいずれにも該当しない。長野・更埴市立(現・千曲市立)屋代中の野球部では、同級生が5人のみ。公式戦0勝だった。 「プロ野球チップスの袋をベースに見立てて練習する時もありました。アップはなし。面倒くさいし、疲れるから嫌だって。顧問の先生も野球未経験で、練習試合も組まれない。だから自分たちが強いのか弱いのかも分かりませんでした」 しかし、聖沢さんは野球がうまくなりたかった。YouTubeもない頃。小学時代から参考にしたのは巨人戦のナイター中継だ。 「高橋由伸さんの打ち方と自分の打ち方は、どこが違うのか。テレビで見て、それを参考にしながら1人で練習する。投手もやっていたので、桑田真澄さんの投球を見ながら、左肩の位置やグラブの高さを試したりしましたね。あとは学研まんが『野球のひみつ』です。ボロボロになるぐらい、何度も読み返しました」 地元の松代高に進学すると、野球部の同期は3人のみ。1人辞めて2人になった。だが丸子実(現・丸子修学館)でセンバツ出場経験がある柳沢博美監督の指導を受け、聖沢さんは練習の強度を上げていく。転機は3年春の県大会。公式戦唯一の本塁打を、たまたまネット裏で「流しのブルペン捕手」ことスポーツライターの安倍昌彦氏が見ていた。 「前後に出場する強豪校の選手を見に来ていたと思うんですが、安倍さんのオススメ選手ということで、自分の名が雑誌『野球小僧』(現・野球太郎)に載ったんです。最後の夏は『4番・遊撃』で初戦敗退だったんですが、雑誌を見た国学院大から、セレクションの案内が届いて。大学に行く選択肢はなく、就職しようと思っていたんですが」 甲子園球児がズラリのセレクション。聖沢さんは気後れすることなく、全力プレーを見せた。 「ワクワクしたんです。それまで金魚鉢の中の狭い空間でやっていたのが、甲子園ボーイと一緒に野球をやる中で、『こんな人たちと本物の野球をやりたい』と思うようになって」 国学院大で才能は開花し、三塁手と外野手で東都大学リーグベストナイン。4年時には主将を務め、安打を量産した。しかし運命の07年大学・社会人ドラフト会議を前に、届いた調査書は楽天からの1球団のみ。記者会見場も設定されなかった。 「当日、名前が呼ばれる可能性は10%ぐらいかなと。記者も0の状態で、寮で仲間と3人で見ていました。そしたら(4巡目で)名前が呼ばれて。夜になって『取材させて下さい』って記者がやってきて、暗闇のグラウンドで胴上げの写真を撮ったりして」 楽天入団後も、生き馬の目を抜くプロの世界で、聖沢さんは考え、努力を重ね、レギュラーをつかんでいく。成功のための心の持ち方、考え方、人と人との縁の大切さが記された一冊だ。 「強いチームに行けなかったから、環境が良くないから夢をあきらめるとか、すごくもったいない。どんな環境でもなりたい思いが強くて、実行に移せば、不可能なんてない。夢を追いかける若い人や指導者、野球ファン、幅広い世代の方にぜひ読んでほしいですね」 ◆聖沢 諒(ひじりさわ・りょう)1985年11月3日・長野・更埴市(現・千曲市)生まれ。39歳。松代高、国学院大を経て07年の大学・社会人ドラフト4巡目で楽天に入団。12年には54盗塁でパ盗塁王。リーグトップの得点圏打率3割7分3厘。13年には初のリーグV、日本一に貢献。連続守備機会無失策927はNPB記録。楽天一筋で11年間プレーし、現在は球団が運営する「楽天イーグルスアカデミー」のコーチを務める。180センチ、80キロ。右投左打。
報知新聞社