【昭和の大相撲】「双葉山の再来」北の湖初優勝、元・横綱の安芸ノ海が絶賛…昭和49年初場所プレーバック
2025年は令和7年だが、昭和(1926―1989年)で数えると100年になる。"昭和100年"の節目を記念して、昭和の大相撲名勝負を振り返る。 * * * 北の湖の初優勝は昭和49年。大関昇進を決め、名横綱へと続く第一歩をしるした場所となった。初日に横綱・輪島を破り快進撃を続け、11日目、魁傑に敗れたものの、1敗で千秋楽を迎えた。重圧のかかる大一番でも、冷静な取り口を見せた。東前頭6枚目・三重ノ海とがっぷり左四つ。力強く寄り切った。 「おかげさんで、ありがとうございました」。歓喜の中で三保ケ関部屋に戻ると、13歳の時から親代わりの師匠、おかみに感謝した。 V翌日の1月21日付の報知新聞に元横綱・安芸ノ海の永田節男さんが手記を寄稿。「足の運び、腰を落としての動き、ヒザにたえず余裕をもたせている点は(双葉山に)そっくり。攻める場合でも、相手の投げを残す時でも、腰を落とし、腹をつきつけている。まさに“二枚腰”をうたわれた双葉山の再来だ」と、自らが70連勝を阻止した大横綱の名を挙げ、絶賛した。 その言葉通り、北の湖の勢いは止まらなかった。同夏場所を13勝2敗で2度目V。続く名古屋場所も千秋楽で本割、優勝決定戦で輪島に連敗し、優勝同点だったものの、13勝2敗で横綱昇進。21歳2か月での昇進は、大鵬の持つ21歳3か月の最年少記録を更新するものだった。輪島と「輪湖(りんこ)時代」を築き、通算24回の賜杯を抱いた。 元スポーツ報知の大相撲担当・大野修一さんは、春日野理事長(元横綱・栃錦)が北の湖を気にかけていたことを覚えている。「いつも『敏満』と呼び、稽古を見たり、土俵入りも教えていた。相撲界を背負っていく存在になると考えていたのでは」と回想した。 真面目勉強熱心 「まじめで律義。いろんな意見が聞きたいと、記者を集めては耳を傾けていた。酒は軽く一升飲むくらい強かった」と大野さん。引退したのは昭和60年初場所。両国国技館のこけら落としだった。「体はボロボロだったけど、両国で相撲を取るんだという一心で土俵に上がったと思う」としのんだ。(久浦 真一) ◆北の湖 敏満(きたのうみ・としみつ)本名・小畑敏満。昭和28年5月16日、北海道・壮瞥町出身。42年初、初土俵。47年初、新入幕。49年名古屋場所後、横綱に昇進。通算成績は951勝350敗107休。得意は、左四つ、つり、寄り、上手投げ。幕内優勝24回。引退後は2度、日本相撲協会理事長を務める。理事長在任中の平成27年、死去。179センチ、170キロ。
報知新聞社