「五輪で№1の右SBと言われたい」5年ぶりの大舞台を見据え、変わらぬスタンスで邁進。楽しむ気持ちも忘れずに【パリの灯は見えたか|vol.5 半田陸】
“知らなかったことを知る”のが面白かった
石丸監督のもとで、“止める・蹴る”の基本的な動作を叩き込まれ、現代的なSBを目ざすためのベース作りに励んだ。21年4月に成績不振で石丸監督がチームを去ったが、新たな出会いが訪れる。後任として指揮官になったピーター・クラモフスキー(現・FC東京監督)と、コーチに就任した川井健太(現・鳥栖監督)だ。 「ピーターや健太さんから引き出しを増やしてもらい、いろんなアイデアを落とし込んでもらった」 SBで戦う術を学んでいる最中だった半田にとって、ふたりの指導は得難いものだった。とりわけ、川井コーチにはお世話になったという。 「自主練習に毎日付き合ってもらった。試合をイメージしながら、自分の課題と向き合うためのメニューを組んでくれた。ほぼ毎日付き合ってくれたし、試合が終われば、次の週には映像を作ってくれて、個人的にミーティングも開いてくれた。試合直後やハーフタイムにもいろんな指示を出してもらった。サイドバックで戦うための術は、すべて健太さんが教えてくれましたね」 知らなかったことを知る――。それがとにかく面白かった。「最初の頃は自分の引き出しが多くなかったので、1個戦術を教えてもらったら、それだけになっていた」が、ポジショニングやボールの引き出し方を知るために貪欲に教えをこう。 大外を回って攻撃に加わるだけではなく、内側のポジションに入ってビルドアップに関与。インナーラップでチャンスに絡む術を覚え、プレーの幅が広がった。 21年はJ2で37試合に出場して3ゴールをマーク。右SBとして地位を確立し、一気に才能が花開いた。翌シーズンは35試合に出場。22年3月に立ち上げられたパリ五輪を目ざすチームでもコアメンバーとして活躍し、右SBの主軸候補として大岩剛監督の信頼を得た。 右肩上がりで成長を続けると、当然見えてくるのは次のステップだ。半田は22年シーズンが終わると、生まれ育った山形を離れる決意を固める。そこで重視したのが、自分の引き出しを増やせるかどうかだった。 「U-21代表で強豪国と対戦して、ヨーロッパのチームと戦うなかで新たな課題が見つかった」という経験も踏まえ、移籍先を熟考した。 「今までやった経験がないサッカーを味わってみたい。そして、もっと自分の引き出しを増やしたかったし、一人ひとりが力をすごく持っているチームという点も含めて移籍を決めた」 そして23年シーズン、半田はG大阪に活躍の場を移し、自身初となるJ1の舞台にチャレンジする。
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