「病気になったら死ぬしかなかった」平安時代。なぜそんな残酷なことがまかり通ったのか?
紫式部を中心に平安の女たち、平安の男たちを描いた、大河ドラマ『光る君へ』の第16話が4月21日に放送されました。40代50代働く女性の目線で毎話、作品の内容や時代背景を深掘り解説していきます。
実在した「悲田院」とは?奈良時代に仏教的思想の中でつくられた施設
『光る君へ』の第16話では悲田院が物語の舞台となりましたが、これは実在した施設です。 奈良時代は慈悲の心や仏教の教えが国内に根付いており、庶民に対しても情深いところもありました。例えば、桓武天皇は自己中心的な役人をとりしまり、庶民の負担を減らすような政策も実施しています。 こうした社会風土の中、悲田院(ひでんいん)や施薬院(せやくいん)のような施設がつくられました。このような施設が僧医によって各地につくられたといいます。また、光明皇后は悲田院、施薬院の二院を設けています。 施薬院には医師が在籍しており、病人を診察し、患者に薬を与えていました。さらに、保健と療養のための湯浴みの提供も行っていました。いずれも無料です。 また、悲田院でも貧窮者を収容したり、病人を無料で診察したりしていました。 平安時代になってもこれらの施設は継続し、平安京には左・右京に官営の悲田院が置かれ、病人や孤児などを収容していました。
平安時代の貴族は庶民の存在に知らんぷり。病気を患った下人は「屋敷が穢れる」という理由で追い出された
平安時代は天然痘が蔓延し、貴族も庶民も関係なく、多くの人が苦しみました。この病は感染力は強く、死亡率が高く、大きな脅威でした。 疫病が蔓延する中、貴族が庶民のための政策を打ち出すことはほとんどありませんでした。庶民のために薬を管理したり、病人を病院に誘導したりといったこともあまり行っていません。 平安時代は貴族を中心に語られますが、人口の大半を占めるのは庶民。しかし、権力におぼれる彼らの世界は自分の周りに限られていました。 本来、人の上に立つ者はその下にある者たちの幸せのためにはたらくものですが、当時の貴族は自分たちに関することにしかほとんど目を向けていなかったのです。 伝染病が流行ると河原や道路に死体が散乱していました。貴族は庶民の遺体があっても嘆き悲しんだり、同情したりするようなことはなかったようです。また、検非違使(けびいし)が道端に横たわる庶民の死体を掃くこともありました。 庶民は貴族をうらんだり、ねたんだりすることはなかったそう。貧困や病は前世や今生における生き方が原因だと、彼らは考えていたためです。