マット・デイモン×ケイシー・アフレックによる逃亡劇 『インスティゲイターズ』の批評性
浮かび上がってくるアクション映画と精神状態との関係
注目したいのは、ローリーとリベラ医師によるセラピーの場面だ。違法行為と離婚を経て、息子との関係が絶たれたことで、深い絶望を感じたまま生活していることを、ローリーはリベラに促されながら吐露していく。そして、この状況が続くのならば「全てを終わらせる」……つまり、自死を考えていると口にするのだ。 この冒頭部で、はやくもローリーの深い絶望が伝わってくるとともに、精神科医にとっても、患者が死を選ぶことは痛恨の極みに違いない。リベラは、なんとかローリーを救いたいと思案し、その後の犯罪アクション展開にもかかわってくるのである。 アメリカ映画においてセラピーの描写の例は、数限りなくある。それはアメリカにおいて、セラピーによる治療が生活に根づいていることはもちろんだが、何よりも、観客に主人公のパーソナリティや人生の課題を紹介するのに便利なシチュエーションだという事情が大きい。それだけに、安易に使われるケースが少なくないことも確かだ。 だが本作では、犯罪アクション映画においては不自然だとすら感じられるほどに、精神科医が物語に絡んでくる。観客の多くは、ローリーの行動を逐一止めようとする彼女の存在を疎ましく思い、ストレスをおぼえるのではないか。しかし脚本上、これは明らかに意図的なものだと考えられるのである。 ここで浮かび上がってくるのが、アクション映画と精神状態との関係だ。多くのアクション映画では、主人公が命を脅かされる危機を何度も経験し、観客はそのスリリングさに興奮することになる。登山家は、危険な地点を攻略したり、命の危険にさらされる状況のなかで、むしろ“生”を実感するという。われわれ観客がアクション映画を観るという行為にもまた、極端に危険な状態を擬似体験することで達成感を味わったり、かけがえのない“生”を実感するといった心理状態を経験したいという願望があるのではないか。 こういった構造を分かりやすく分析した映画がある。デヴィッド・クローネンバーグ監督の『クラッシュ』(1996年)や、クエンティン・タランティーノ監督の『デス・プルーフ in グラインドハウス』(2007年)といった作品では、凄絶なカークラッシュを生き延びるによって性的興奮を得る人物が登場する。これは、死の危険によってむしろ生存本能が刺激されるといった、登山家や映画の観客の心理的なメカニズムと類似しているところがある。性的な欲動と、生への執着に関連性があることは、これまでも広く論じられてきたことであり、ここで指摘するまでもないだろう。 マット・デイモン演じるローリーが劇中で望んでいたのは、息子との関係改善であり、それが彼の唯一の生きる希望となっていた。なぜ彼は、強盗計画に参加するという危険を冒し、永遠に息子と会えなくなるようなリスクをとる道をあえて選ぶのだろうか。ここに、人間の心理の矛盾した複雑さが示されている。つまり、ここでの破滅的な衝動というのは、逆に“息子と繋がりたい”、そして“生きていたい”という深層的な心理によってもたらされていたと解釈できるのである。実際、ローリーはリベラ医師の根気強い治療によって、「生きたい」という心の声を口にするまでに至る。 このように考えれば、本作の物語は、彼の精神的な治癒の道程であったことが理解できるだろう。そして、人間の心理的な生死への見方を、アクション映画という娯楽的な枠組みのなかで象徴的に表現しようとしたのが、本作の挑戦的な狙いだったということが理解できるのだ。 あるいは、このような複雑といえる作中の構造を、セリフなどで説明したり、思わせぶりな演出を用いて仄めかすような分かりやすい箇所があれば、批評家や観客は本作『インスティゲイターズ ~強盗ふたりとセラピスト~』をより評価しやすかったのかもしれない。だが、そこをあえて強く意識させず、あくまで娯楽アクションとしての位置にとどまらせたのは、おそらくはダグ・リーマン監督の作家的な慎ましさであり、スタイルへのこだわりだったように感じられるのである。
小野寺系(k.onodera)