10年正体を隠し…元世界陸上“美しき”代表・絹川愛「トップコスプレイヤーになるまでの」地獄の日々
「第一の人生が陸上選手なら、第二の人生はコスプレイヤー。これからの第三の人生では、第一と第二を合わせた私にしかできないことをやりたいです」 青い髪にブルーの目…“美しき陸上選手”絹川愛「『弱虫ペダル』が超キマっている」コスプレ写真 こう話すのは、ロードレースアニメ『弱虫ペダル』のキャラクターになりきったコスプレイヤー蓮弥だ。蓮弥は2年連続で雑誌のベストコスチューマーに選ばれたことのあるトップコスプレイヤー。X(旧ツイッター)のフォロワーは2万人を超える。 蓮弥の本名は絹川愛(34)という。名前を聞いて「おや?」と感じた読者もいるだろう。絹川は、世界陸上女子で2回(’07年の大阪、’11年の韓国・大邱)日本代表に選ばれたことのある有名アスリートでもあるのだ。愛くるしい笑顔から“美しき陸上選手”として多くのファンを魅了してきた絹川だが、自分がコスプレイヤー蓮弥であることを約10年間隠してきた。5月7日付『スポーツ報知』の取材で初めて正体を告白。第三の人生を歩み始めるまでの苦難の半生を、絹川が自らの言葉で紹介する――。 「幼稚園の頃から足は速かったですね。小学校の運動会では常に1位。ただ、中学から本格的に陸上を始めた理由は痩せたかったから。今と身長(約155cm)はほとんど変わりませんが、体重は10kgほど重かったんです。走ったら、痩せてかわいい服を着られるかなぐらいの感覚で陸上部に入りました」 ◆知らないオジサンが「やー、やー」 絹川は持ち前の素質から各大会で好成績を収める。一方で、天然なキャラクターでファンの笑いを誘うことも。中学3年時の全日本中学選手権では、序盤から独走しながらゴール直前にガッツポーズしていると後続に抜かれ2位になった。そんな憎めない絹川は、中学時代に運命の出会いを果たす。 「ある大会で、『やー、やー』と知らないオジサンが話しかけてきたんです。私は日本人には珍しい、ケニアやエチオピアの選手のような腰高のツマ先走りをしていました。オジサンはそこに注目したようで、周囲にこう話していたそうです。『世界で通用するランナーに育てられるかも』と。オジサンは陸上の名門・仙台育英高校(宮城県)の渡辺高夫監督でした」 渡辺監督の勧めで絹川は仙台育英に入学した。渡辺監督は絹川を「ターボエンジンを搭載した(壊れやすい)軽自動車」と称し、過度の練習をさせずに育成する。育成法はピタリとハマり、絹川は2年時の高校駅伝では1区で区間賞を獲得し、3年の日本選手権では1万mで3位に入賞。同じ年の世界陸上に、唯一の女子高生選手として出場し14位(1万m)となった。しかし……。 「高校を卒業して入社した(スポーツ用品メーカー)『ミズノ』では、’08年8月に開催される北京五輪代表を目指していました。でも直前から原因不明の体調不良になったんです。足の疲労骨折などケガも相次ぎ、一つ治れば次の箇所を痛める繰り返しで……。 ウイルス性の病気にもかかりめまいがヒドく、バランス感覚が崩れまともに歩くことすらできません。五輪代表になるどころか普通の生活を送ることすら困難で、毎日不安ばかりの地獄の日々を過ごしていました」 ようやく体調が回復しても、なかなかモチベーションが上がらない。背中を押したのは、’11年に起きた2つの悲しい出来事だった。 「一つは、母校のある東北地方を襲った東日本大震災。もう一つは北京五輪男子マラソンの金メダリストで、ケニア出身のサムエル・ワンジルさんの死です。ワンジルさんは’11年5月に事故で亡くなりました。まだ24歳でした……。ワンジルさんは仙台育英に留学し、一緒に走ったこともある憧れの先輩です。 高校卒業後も私を指導してくれていた渡辺高夫さんは『オレの教え子で世界に通用するのはオマエだけになった』と嘆いていました。それからです。私が本格的に走ることを再開したのは。東日本大震災で被災した仙台の人々やワンジルさんのことを考えると、『私が魂を引き継ぐ』という思いが強くなり力に変わっていったんです」 恩師・渡辺氏の熱心な指導も功を奏し、絹川は復活を遂げる。’11年6月の日本陸上選手権では、5000mで自己ベストを更新し優勝。同年11月に韓国・大邱で行われた世界陸上では日本代表に選ばれた。だが栄光の日々も長くは続かない。【後編】では絹川が引退後に自身を見失ったどん底期や、コスプレイヤーとして第二の人生を歩み始めるまでの葛藤を紹介したい。 ***************** 絹川愛(きぬがわ・めぐみ) 1989年8月7日生まれ。群馬県高崎市出身。仙台育英高時代から注目された陸上選手。世界陸上に2度出場。明るいキャラクターで多くのファンを魅了する。蓮弥の名前でコスプレイヤーとしても活躍。
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