大河ドラマ「光る君へ」のシーンに蜻蛉日記・枕草子… 古典の名作、SNSでファン歓声
「蜻蛉日記」の和歌を口にして…
水野:直近の第14回「星落ちてなお」では、蜻蛉日記の和歌も登場しました。 とうとう床にふせった道長の父・兼家(段田安則さん)。死期を間近にした兼家の枕元に道綱母(財前直見さん)がやってくると、兼家が蜻蛉日記の歌を口にするという…。 <なげきつつ ひとりぬる夜の あくるまは いかに久しき ものとかはしる 右大将道綱母 『百人一首』53番/『拾遺和歌集』第14巻(恋四 912首目)> たらればさん:きましたね。 水野:リスナーさんから、「日記は個人的なものではないのでしょうか。当時は、宮中でどのように蜻蛉日記が読まれていたのでしょうか」という質問がありました。 たらればさん:そもそも当時の日記は他人に読まれる前提で書かれていました。個人的という意識はほとんどなかったと思いますよ。紫式部日記も和泉式部日記も、自分ではない誰かに見せる前提で書かれています。 読まれ方は、写本などで回し読みするかたちで、今だと同人誌を回してみんなでコピーして回り回って…という状況だったと思います。 ドラマでは直接の関係は描かれていませんが、道綱母は紫式部の遠縁にあたるので、それで蜻蛉日記をまひろに見せている可能性もありますね。 水野:日記は読まれる前提で書かれているもので、それで倫子さまのサロンで「道綱母のような女性はかわいそう」などと思われていたってことですよね。 たらればさん:そうですね。「兼家が読んでいた」ということで驚いたのは、当時、男性が読むものと女性が読むものには大きな隔たりがあったからです。そりゃあ男性も読んでいたでしょうけれども、大っぴらに言うことではなかった。 男性は、和歌を詠むので仮名は書けても、主に読むのも書くのも真名、つまり漢文でした。当時「日記や物語を読む」というのは、今から数十年前の「マンガを読む」みたいな感覚だったと思います。 一方で、女性陣は日記や物語を娯楽として読んでいた。「枕草子」では「うつほ物語」の貴公子二人(藤原仲忠と源涼)のうちどちらが主人公としてふさわしいか女房仲間と議論した…なんていうシーンも描かれています。 水野:ドラマでは、かたわらにいた道綱(上地雄輔さん)が「なになに?その歌」って言っているのに笑いました(笑)。 たらればさん:母親のラブソングはあんまり聴きたくないんじゃないですかね(笑)。 でも、「紫式部日記」は娘(大弐三位)にあてて書いたという説もありますし、その中にも道長との歌の(ややきわどい)やりとりが出てきますので、「見られてもいいか」という意識はあったのかもしれません。当時の感覚は、現代の常識や文脈では推し量れないなあと思います。