怪物“OSO18”が遺した教訓 駆除1年“忍者クマ”を追い続けた藤本さんが伝えたいこと
(駆除したハンター)「駆除したヒグマはすぐに食肉加工業者に運ばれ、鮮度の良いうちに解体された。このヒグマの存在を物語る資料は、クマの牙と頭部を撃ちぬいた銃弾のみである」
この展示会を企画した博物館の学芸員・坪岡始さんです。
(標茶町博物館ニタイ・ト 坪岡始学芸員)「クマ撃ちとして標茶で60頭近くとった茅井さんという方が使っていた本物の銃です」 博物館には、明治から昭和にかけてクマから標茶町を守ってきた、先人の装備も展示されています。
(標茶町博物館ニタイ・ト 坪岡始学芸員)「昔は牛より馬の生産が盛んで、馬を襲うクマが多かったそうです。クマ撃ちの名人は周辺で知れ渡っていて、害を及ぼすクマがいた場合はクマ撃ちに山に入ったと聞いています」
森と人里の“境界”が、クマと向き合う人々によって守られてきた歴史があります。 しかし近年、駆除される機会が減ったこともあり、この“境界”が薄れつつあります。
エサの味を覚えて執着し、繰り返し出没する姿は、まさにOSO18と重なります。 (標茶町博物館ニタイ・ト 坪岡始学芸員)「人が住むところとクマが住むところを分けなければいけないとどの方もおっしゃいます。クマも安心安全に暮らせる地域を我々の方で区分けして設定しなければいけない」
OSO18の追跡を指揮してきた藤本靖さんです。
道からの委託を受け「OSO18特別対策班」のリーダーとして活動しました。 被害の連絡があれば夏冬問わず山に入り、足跡などの手がかりを探す日々でした。 その藤本さんも、ズバリ指摘します。
(南知床・ヒグマ情報センター 藤本靖さん)「クマがエサに執着するというのがこの地図からも見て取れますね」 OSO18が駆除された後も続けているデータの分析作業。
赤い目印や、色の違う複数の線はOSO18の被害や移動ルートを示します。 いちど牛を襲った牧場に何年にもわたり足を運んでいることが裏付けられています。 さらにー