「タレントが出ない年でもジャニーさんはやってきていた」…「ジャニーズ」と『紅白』の歴史を振り返る
田原俊彦、近藤真彦、そしてシブがき隊
昭和55(’80)年、NHK『レッツゴー・ヤング』を経て田原俊彦が『哀愁でいと』で初出場。翌年にはトシちゃんに加えて『ギンギラギンにさりげなく』でマッチ、近藤真彦。さらに翌57(‘82)年は『100%…SOかもね!』でシブがき隊。3年連続『紅白』の前番組『レコード大賞』最優秀新人賞を手土産にNHKホールに参上。 それまでアイドルとして開始すぐの前半で登場していたが、翌58年にはマッチが後半のトップバッター、トシちゃんも北島三郎、五木ひろしらベテランに混じってのラストコーナーでの歌唱。俊、マッチ、シブがきの3組体制が4年続いた後、61(’86)年には少年隊が初登場。 加山雄三の紹介「少年隊の仮面ライダー!」が有名になった年。お正月になってジャニー社長が少年隊に向かって「ユーたち、あれで日本人みんなが覚えてくれたね」と上機嫌だったという。 ◆少年隊、光・GENJI、男闘呼組…黄金時代が始まる 実はこの年、メンバー発表の際、少年隊が出ることで同タイプの先輩、シブがきが落選していた。“同じ事務所から何人”という規定はなかったものの、大みそかの2日前になって出場が決まっていた北島三郎と山本譲二が前の年の暴力団の新年会に出席していたことが発覚、出演辞退に追い込まれた。急遽シブがき隊が休養中のハワイから呼び出されて、新年のコンサート用衣装で歌い、結果異例の4組出演となった。 ところが翌年、窮地を救ったシブがきだけでなく、7回出場してきた田原俊彦も「アイドル層の中で支持が低かった」という理由で落選。けれども翌63(‘88)年には、トシちゃんがドラマ『教師ビンビン物語』に主演、主題歌『抱きしめてTONIGHT』が大ヒットしてカムバック決定。だが前年の遺恨か、発表後1週間経って出場を辞退する。 この年はニューアイドルの光・GENJIも初出場。トップバッターでローラースケートを滑らせながら『ガラスの十代』『パラダイス銀河』など4曲メドレーのこれまた異例措置。白組の2番手に出場3回目の少年隊。さらに3番手は田原の代わりに出場することになった事務所の後輩、男闘呼組。次の4番手はマッチとジャニーズメンバー4組。 そのマッチだが翌年には、恋人と噂されていた中森明菜とともに落選。7月にマッチの部屋で、明菜が自殺未遂事件を起こしたことが要因になったと言われた。しかし『紅白』の裏の時間に二人して会見し、「二人は何の関係もありません」と話し、恋に終止符が打たれた。マッチが『紅白』に次に登場するのは8年後、明菜に至ってはこの年から14年後のことである。