半グレ組織「怒羅権」誕生の知られざる真実…「散々殴られ、つるし上げ」中国残留孤児の想像絶する悲劇
日本にある外国人犯罪組織として有名なのが、「怒羅権」だろう。 もともとは太平洋戦争が終結した後、中国に置き去りにされた残留孤児の2世が結成した組織だ。残留孤児1世たちが戦後40年ほどして日本に帰国した時、当時小学生くらいだったその子どもたちは日本人から激しい差別を受け、日本社会に溶け込めなかった。そんな者たちの一部が、不良となって作り上げたのだ。 【後編】「怒羅権」結成の知られざる秘話…メンバーが体験した壮絶な現実 私自身、怒羅権の創設者やその関係者に会って話を聞いたことがあるし、一部の人たちは自らメディアに出て話をしている。だが、彼らが自分たちの親である残留孤児1世について言及することはほとんどない。 社会からこぼれた高齢者を描くルポ『無縁老人』(石井光太、潮出版社)から1世たちの歩みを紹介したい。 すべてのはじまりは、太平洋戦争終結の直前の1945年8月9日だった。 日本は戦前の1932年に中国の東北部に「満州国」を建国し、実質的に支配下に置いていた。日本政府は国内の人々に満洲国への〝移住〟を促したため、終戦の直前には、民間人だけで百数十万人が暮らしていた。 だが、8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を破り、満州へ侵攻をはじめる。これによって満州国で暮らしていた日本人は、ほとんど着の身着のままで逃避を余儀なくされた。 ◆「寒さでバタバタと人が死んで……」 ソ連軍や一部の中国人は、このような日本人に容赦なく襲い掛かった。略奪、暴行、殺害、それに飢餓によって命を落とした日本人も多かった。 本書に登場する残留孤児の男性(終戦時7歳)がいる。母親が彼を含む3人の子どもを連れて逃げたのだが、途中でソ連軍に捕まり、収容所へ送られた。父親は兵隊にとられていて不在だった。 彼は当時のことをこう話す。 「収容所は『難民営』って呼ばれていました。秋には氷点下、冬にはマイナス30度に達しました。それなのに布団すらろくにもらえないんです。食べ物といったら、コーリャンやトウキビで作ったおかゆぐらい。量もほんのわずかなので、毎日飢えや病気、それに寒さでバタバタと人が死んでいきました。 難民営に来てしばらくして、3歳だった弟が病気にかかりました。医者もいなければ、薬ももらえません。看病していたお母さんも栄養失調で倒れてしまいました。7歳だった僕はどうしていいかわかりませんでした。そして手をこまねいているうちに、2人とも死んでしまったのです。朝起きたら冷たくなっていたのです」 遺体は、収容所にいた日本人の大人によって埋められたそうだ。 彼は幼い妹と2人きりになり、自分もすぐに死ぬだろうと覚悟を決めた。子どもだけで生き延びるにはあまりに過酷な状況だった。 だが、奇跡が起こる。収容所の近くに暮らす中国人夫婦がやってきて、彼を引き取ったのだ(妹は別の中国人が連れて行った)。こうして彼は残留孤児として中国で生きていくことになる。 残留孤児の多くは、このような形で中国人家庭に引き取られた者たちだ。中には、親が連れて帰れないと考えて中国人夫婦に預けたり、親と生き別れになった子どもが中国人夫婦に拾われたりしたこともあった。形は違えど、彼らはそのようにして中国に取り残され、暮らしていくことになったのだ。 残留孤児1世にとって、中国での生活は簡単なものではなかった。 0歳~3歳くらいまでに引き取られれば、彼らは中国語や文化を自然と身につけ、学校へ上がる年齢の頃には中国人同然に育つ。 だが、小学生くらいの年齢の子たちはすでに日本文化が身についているので、中国語も文化も勉強として学ぶ必要があり、残留孤児として生きていかなければならなかった。そのため、彼らの中には中国人から罵られ、危害を加えられた者も少なくなかった。 ◆「大人は笑って眺めているだけ」 ある残留孤児の女性(終戦時9歳)は次のように話す。 「最初は中国語がしゃべれなかったことから、日本人だということが明るみに出て、学校や地元で激しいいじめに遭いました。同級生や先輩たちが口をそろえて『小日本鬼子!』と罵倒し、石を投げたり、泥を投げたりしてきたのです。今でも思い出すと涙が溢れてきます。 日本人の大人が周りにいて守ってくれるわけではないし、学校の先生だって地域の大人だって笑って眺めているだけでした。いい気味だくらいにしか思っていなかったのでしょう。私は反抗することもできず、我慢しつづけるしかありませんでした」 戦時中、日本軍は中国人に数々の暴力行為を行ったが、彼らの怒りは取り残された孤児たちに向かったのである。 残留孤児たちは、暗く悲しい子ども時代を経て大人になっていった。そして中国の学校を卒業すると、地元で仕事を見つけ、社会に溶け込んでいく。そこで異性と出会い、結婚して家庭を持つ者も多かった。 そのような時期に当たる1966年に、中国ではじまったのが「文化大革命」だった。表向きは政治運動だったが、実際は権力者や富裕層に対する迫害だった。文化大革命は、ようやく中国社会に根を下ろした残留孤児たちの生活も一変させる。 本書に登場する男性はこう話す。 「僕は中国人の女性と結婚し、人民公社に勤務していました。そしたらいきなり見知らぬ男たちが押しかけてきて、お前は日本人だろ、とか、ソ連のラジオを聴いていると言いがかりをつけられたのです。彼らは私を批判大会に引っ張っていきました。そこには大勢の人々が集まっていて、私は散々殴りつけられ、罵倒されました。つるし上げです。 ここでも私は何かの誤解だと言いましたが、みんな興奮して聞こうとしません。彼らは私に『現行反革命』と書かれた帽子を被らせ、町で引き回しにしました。家にも人々が押し入ってきて、家具をメチャクチャにして、幼い子どもたちを『反革命家族』とか『日本の畜生』と罵った。そういう時代だったんです」 1972年、そんな残留孤児たちに朗報が舞い込む。日中国交正常化が決まったことで両国の間で協議が行われ、残留孤児(残留邦人)の帰国受入援護事業が開始されることになったのである。中国から、日本に帰るための扉がようやく開いたのだ。 だが、これが残留孤児たちの第二の悲劇につながっていく。それについては【後編:「怒羅権」結成の秘話…メンバーが経験した壮絶な現実】で詳しく述べたい。 取材・文:石井光太 ’77年、東京都生まれ。ノンフィクション作家。国内外の文化、歴史、医療などをテーマに取材、執筆活動を行っている。著書に『絶対貧困』『遺体』『「鬼畜」の家』『43回の殺意』『本当の貧困の話をしよう』『格差と分断の社会地図』『ルポ 誰が国語力を殺すのか』などがある。
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